※本稿は、黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
家康の人生に大きな影響を与えた今川氏真
よく世間一般では、家康に最も影響を与えた人物は誰か、という問いかけがなされる。その際、織田信長、羽柴秀吉、あるいは武田信玄の名があげられることが多い。近時のテレビ番組や歴史雑誌でもそうした論調が強いであろう。
しかし本書を書き終えてみると、それは今川氏真であった、といっても過言ではないように思える。そもそもそのような問いは、歴史学的には適切ではないが、それを措いたとしても、家康が大規模戦国大名に成長し、その存立を遂げていくうえで、氏真からうけた影響は大きく、あるいは氏真から継承したものは極めて多かったと認識される。家康という存在の基礎、もしくは根幹には、今川家という存在があったことは間違いないといえよう。
そもそも家康は、岡崎松平家の当主として、戦国大名・国衆という領域国家の主宰者として必要な、武将として、また政治家としての教養を修得したのは、今川家のもとでのことであった。天文18年(1549)、もしくは同19年に、8歳か9歳の時から、今川家の本拠であった駿府に居住した。それらの教養は、そこで修得したのであった。それはいわば、今川家によって育成されたことを意味しよう。
今川家は「戦国大名家のトップランナー」
そして今川家の嫡男として存在したのが、今川氏真であった。家康よりも4歳年長であった。家康は、今川家御一家衆・関口氏純の婿になって、今川家の親類衆として存在した。したがって氏真は、その宗家にあたる存在であったといいうる。
弘治3年(1557)に氏真が今川家当主になると、家康はそれに従う関係にあった。そして宗家とその親類衆ということから、親密な関係を形成したことであろう。
当時の今川家は、駿河・遠江・三河3カ国を領国とした、海道筋随一の大規模戦国大名であった。しかも室町幕府を主宰する足利将軍家の御一家として、高い政治的地位とそれに相応する文化・教養をもとに、近隣の甲斐武田家・相模北条家よりも優越する地位にあった。
周辺の戦国大名家をリードする、いわば戦国大名家のトップランナーともいうべき存在であった。家康はそのもとにあって、少年期から青年期を過ごしたのであり、今川家からうけた影響は、計り知れないものがあったことは間違いない。家康にとって、今川家こそが、戦国大名家としての手本に他ならなかったであろう。