家康と信長が「元敵」の氏真を庇護した理由

家康が、さらに信長が、氏真を庇護することを承知したのは、武田家との抗争にあたり、元駿河国主の氏真を擁することで、武田家に対し駿河支配の正当性を獲得できるからであった。氏真は、信長・家康から、駿河経略のうえは同国を与えられることを約束されたとみなされ、その後は駿河国主予定者として、国主相当の政治的立場を復活させている。

天正4年には駿河への最前線拠点であった牧野城の城主に任じられた。これは氏真が駿河経略の先鋒を務める姿勢を表明したものであった。

ところが実際には、氏真は牧野城にはあまり在城せず、基本は浜松城に在所した。理由は判明していないが、家康から何らかの役割を求められていたためと考えられるように思う。戦国大名家としての教養の指南にあたっていたのではなかったか。

家康の嫡男・秀忠の養育を担った今川家

天正7年に家康の三男で、のちに嫡男にされる秀忠が誕生すると、その「御介錯上臈ごかいしゃくじょうろう」、すなわち後見役の女性家老に、氏真妹の貞春尼ていしゅんにが任じられ、また後見役の乳母に今川家旧臣の娘「大姥局おおうばのつぼね」が任じられた。

これは秀忠の養育が、今川家の関係者によっておこなわれたことを意味する。それにともなって徳川家の奥向きの構造も、今川家の作法で確立されていったことであろう。さらに同年に家康が北条家と同盟を形成するにあたっては、氏真家臣がその使者を務めた。氏真は北条家と旧知の間柄にあったため、北条家との関係を取り持つ役割を果たしたのである。

そして家康にとって、北条家との同盟は、武田家との抗争において攻勢にでていく契機をなし、駿河への侵攻を開始するのであった。