故郷・駿府で実現した家康と氏真の面談

氏真の京都での生活の全容は判明しない。それでも家康とは、引き続いて交流していたことであろう。家康は慶長11年に江戸に下向げこうし、同12年に駿府城を本拠にしてから、ほぼ上洛しなくなる。

家康が再び自身の本拠に駿府を選んだのは、やはり同地に対する愛着によるように思う。しかしこれによって家康と氏真は、しばらく面談できない状態になった。

慶長17年4月に、氏真はついに徳川家の本拠・江戸に移住する。その途中で駿府を訪れると、ただちに家康は氏真と面談におよんでいる。家康にとって、氏真がいかに特別の存在であったかが、端的に示されている事実といえるであろう。

戦国を生きる「盟友」だったのではないか

その2年後に氏真は77歳で死去し、さらにその2年後に家康が75歳で死去する。両者の交流は、60年以上におよぶ長期のものであった。

黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)
黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)

しかも両者は、ともに戦国大名家・国衆家当主として領域国家を主宰する国王の立場にあり、少年期からともに過ごしてきた間柄にあったことを想えば、長い人生のなかで両者の立場には変化がみられたものの、互いに戦国を生きる盟友として認識しあっていたのではないかと思わずにはいられない。

そして家康は、「天下人」として戦国争乱を終結させる存在になったが、その過程において、領国統治や奥向き構造など、今川家の教養・文化に支えられていた。このようにみてくると、家康という存在は今川家あってのものであった、といってもよいほどであろう。家康と氏真が、死去の直前まで交流を続けていたことも、そう考えると納得できるように思う。

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