※本稿は、黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
秀吉・秀長が備中攻めの最中、本能寺の変が
天正10年(1582)5月、秀吉は備中高松城を包囲しながら、織田信長の到着を待ちつつも、毛利家との和睦をすすめていた。条件は城将清水宗治の切腹と、領国(因幡・美作・伯耆・備中)の割譲であった。とはいえ実態は、伯耆(山陰)は半国、備中は足守川以東であった。しかも因幡・伯耆半国・備中足守川以東は、すでに秀吉の勢力下に置かれていた地域にあたっている。残る美作は、半国が宇喜多家領国になっていたから、実際に割譲されたのは、毛利方にあった美作半国だけというのが実情だった。
そうしたなか6月2日に、織田家家老惟任(明智)光秀による京都本能寺の変で、「天下人」織田信長とその嫡男で織田家当主の織田信忠が同時に戦死してしまった。その報は、3日の晩には得たとみられている。
すでに秀吉は、毛利家とは翌4日午前に和睦を成立させることを取り決めていた。秀吉は予定通りに和睦を成立させ、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景と起請文を交換した。そして惟任光秀討伐を図り、6日午後に陣を払い、8日に姫路城に帰還したとみられている。
秀吉の「中国大返し」には秀長も同行
そして9日に同城を出陣して、明石(明石市)に着陣し、ここで淡路を確保したうえで、同地を出陣し、10日に摂津兵庫(神戸市)に、11日に同国尼崎(尼崎市)に到着した。12日に池田恒興・中川清秀・高山右近允ら摂津武将と合流し、摂津と山城国境の山崎(大山崎町)に先陣を進軍させて、13日に富田(高槻市)で摂津大坂(大阪市)に在陣していた織田信孝・惟住(丹羽)長秀(1535〜85)らの軍勢と合流した。そして秀吉も山崎に進軍した。秀長がこれに同行していたことはもちろんである。
秀吉らの進軍をうけて、惟任光秀も進軍してきて、両軍は山崎で合戦となった。合戦は秀吉方の大勝であった。そこでは秀長は、天王山の山の手に、黒田孝高・神子田正治・前野長康・木下俊匡らとともに陣取ったことが知られている。ここでも秀長は、秀吉本軍とは別軍を構成している。やはり秀吉の他に総大将を務めることができたのは、秀長だけであったことがわかる。

