山崎合戦で光秀を倒した秀吉は清須会議へ

山崎合戦での敗戦により、惟任軍は後退し、惟任光秀自身はその日に横死した。その後は秀吉方による惟任方の鎮圧が展開され、6月のうちに近江・美濃・尾張の平定が遂げられた。

近江の平定を完了したのが6月19日のことで、21日に惟住長秀とともに美濃に進軍し、続いて尾張に進軍して、25日には両国を平定し、尾張での織田家の本拠であった清須城(名古屋市)に在城した。同城には、織田家当主織田信忠の嫡男三法師(のち秀信)が、本拠の美濃岐阜城(岐阜市)から避難していた。そのため秀吉・惟住長秀らは、三法師が在城する清須城に向かったのである。

そして6月27日、織田家の有力家老で、越前を領国としていた柴田勝家の到着を待って、清須城で、柴田勝家・惟住長秀・羽柴秀吉・池田恒興の4人の家老によって、今後の織田家の在り方について協議がおこなわれた。いわゆる「清須会議」である。ここでは織田家の政務体制が取り決められ、織田信長・信忠死去と惟任光秀ら叛乱者の滅亡をうけ、それらの領国の再配分がおこなわれた。