9年の軍事抗争を経て、2人は和睦
永禄3年(1560)の尾張桶狭間合戦で、今川義元が戦死したことで、三河・尾張情勢は急変し、それに応じて家康は、尾張織田信長と同盟したうえで、今川家に敵対する。そこから家康は、足かけ9年におよんで氏真と軍事抗争を展開した。
しかし家康が果たしえたのは三河一国の統一であり、遠江経略をすすめることはできなかった。同11年に、氏真と武田信玄の関係悪化により、家康は織田信長を通じて信玄と同盟を結び、氏真に対して協同の軍事行動を展開し、遠江経略をすすめた。
氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城した。家康はそれを攻撃するが、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結び、その際に氏真・氏政と入魂にするという誓約まで結んだ。家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う。
これにより家康は遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河2カ国の戦国大名になった。本書では、家康による領国統治の具体像については、全く触れることができていないが、家康の遠江・三河統治のあり方は、支城制の採用といい、在地支配の仕組みといい、今川家のそれを踏襲するものであった。家康にとって今川家は、やはり戦国大名としての手本であったといいうる。
北条家のもとを離れた氏真が頼った先
懸川城から退去した氏真は、駿河大平城、次いで相模小田原に居住し、北条家の庇護をうけながら、武田家を撤退させて駿河に復帰することを図った。しかし元亀2年(1571)、妻早川殿の父・北条氏康の死去を契機に、北条氏政は武田信玄と再同盟した。これにより氏真は、北条家のもとで駿河復帰を果たすことはできなくなった。家康はその翌年から、武田信玄から領国への侵攻をうけ、領国の半分以上を経略されてしまう。
しかし天正元年(1573)4月に、武田信玄が死去したことで情勢は好転する。家康は反撃し、領国の回復活動を開始した。これをみた氏真は、駿河復帰の夢を家康に託すことにし、北条家のもとを離れて、家康を頼り、遠江浜松城に移住した。
家康は当時、織田信長に従属する関係にあったから、それは信長の承認を必要とした。氏真は信長とは、それまで敵対関係にしかなく、しかも氏真にとって信長は父義元の怨敵にあたっていた。そのため氏真は、出家して信長に対して降参の作法をとって、敵意はないことを明示したうえで、家康の庇護をうけた。