信玄に負けたから関ヶ原に勝てた
信玄は当初から、浜松城を放棄したまま通過するつもりはなかったようだ。といって、城攻めは苦手である。西上を急がねば、信玄を頼って信長に叛旗を翻した“信長包囲網”の諸勢力が危ない。
ぐずぐずしていれば、国力、火力にものをいわせた信長に、各個撃破される恐れがあった。この状況は、ちょうど関ヶ原の合戦前夜、家康がおかれていた立場に酷似していた。
西軍との対峙が長引けば、豊臣秀頼が政治的な動きを示し、味方の東軍諸将に亀裂が生じないとも限らなかった。そうなれば、万事は休する。
「勝兵は先ず勝ちて後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて後に勝を求む」と言ったのは孫子だが、若き日の大敗北を教訓とした家康は、己が信長と同じタイプの人間ではないことを思い知り、同時に、完敗した信玄に学んだのである。
家康は老練な信玄の戦法をマネることによって、“天下分け目”の戦いに勝ち、ひいては天下を取ることができたといえる。
三方ヶ原の戦いのおりの信玄は、52歳。関ヶ原の合戦のおりの家康は、59歳であった。家康がいかに、三方ヶ原の合戦を教訓としたか――。
凡庸な自分が生き残る方法
これまでいわれてきたのが、今日なお徳川美術館に残る、三方ヶ原での敗戦のあと家康が命じて描かせたとされる自画像、いわゆる「顰像」であった。甲冑姿で床凡に腰をかけ、猛省する家康の姿が、そこにあった。
家康の非凡さは、多くの成功者が自身の敗北をひた隠しにしようとするのとは裏腹に、自らの敗北を、曲げた左足をかかえ込み、左手を顎にあてがい、意気消沈した姿に残して、失敗を肝に銘じたことにあった、とされてきた。
近年、この「顰像」は三方ヶ原とは関係なく描かれたものではないか、との疑懐(疑念)が研究者から呈されたが、このとき家康が心の底から自らの性格を反省し、凡庸な自分が生き残る方法として、学びの源=“真似び”を徹底して、敵の武田信玄の立ち居振る舞い、言行、戦略、戦術を徹底的にマネしたのは間違いなかった。
関ヶ原も、その一部であったわけだ。