関ケ原と武田信玄をつなぐ点と線
「東軍は大垣城を無視して素通りし、まずは佐和山(三成の居城)を落とし、近江から一路、伏見、大坂を突く」というニセ情報を、西軍陣営に流したのである。
するとどうであろう、驚いた三成は午後7時頃、秋雨をおして主力の3万余の軍勢を、密かに関ヶ原へ移動させてしまった。大垣城を迂回してくる東軍を、関ヶ原で迎え撃つ作戦に転じたのである。
まんまと作戦どおりに三成が関ヶ原へ誘い出されたことによって、結果的に西軍は負けたのだ、とする見方は専門家のあいだに根強い。
さて、この関ヶ原の敗因と、信玄・家康の城攻めに苦手であることがどう結びつくのであろうか。実はこの関ヶ原の戦いは、武田信玄がその死の直前、原型を立案し、自ら実践していたものであった。
「まさか、そんな馬鹿な――!?」
疑問に思われる向きもあろうが、うそではない。
なぜ信玄は浜松城を攻めなかったのか
“三方ヶ原の合戦”が、信玄の死の4カ月前におこなわれた。この戦いは、のちに天下人となった家康が、生涯に一度の完敗であったことを素直に認めた合戦であり、家康の率いた負けしらずの三河軍団が、完膚なきまでに、叩きのめされた数少ない敗戦であったといえる。
元亀3年(1572)10月、ついに上洛を決意した信玄は、周到なプロジェクトを組んで西上作戦を展開したといわれている。京までの途中、その行く手を阻むものは織田信長とその同盟者・徳川家康の2大名だけであった(西への領土拡大策であっても、敵は2人)。
信玄は無敵の甲州軍団を率いて、進軍を開始。家康方の二俣城を攻略し、信長方の美濃岩村城を落として、計画どおりに進撃した。
12月中旬、家康の居城浜松城を目前に、甲州軍団は軍議を開いている。目前に迫った家康をどう処理すべきか、を話し合うためであった。
このときに信玄のとるべき処置は、大別して二つしかない。
一つは、浜松城を包囲して持久戦にもち込む戦法。信長が反対勢力(浅井長政、朝倉義景、本願寺、松永久秀ら)に釘づけとなっている以上、城を包囲すれば必ず落とせるという考え方から出ていた。
もう一つは、浜松城を無視して西上の軍を進め、徳川氏の本拠地三河を突くという戦法だ。
普通なら信玄は、前者を選択したに違いない。それが、戦の定石でもあったからだ。なのにこのとき信玄は、後者を採用している。軍議の席上、後方に浜松城を残したまま進めば、補給路が断たれる懸念が提議されたにもかかわらず、である。