なぜ徳川家康は天下をとることができたのか。作家の加来耕三さんは「生涯唯一の敗戦である『三方ヶ原の戦い』後の行動に象徴される。武将としての凡庸さを痛感し、失敗や敵から徹底的に学ぶようになった」という――。(第1回)

※本稿は、加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)の第三章の一部を再編集したものです。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons

徳川家康と武田信玄の意外な共通点

人間は往々にして、成功の類型(パターン)からは逃れられない。たとえば、一人の武将が奇襲戦を敢行して、それによって敵の大軍を破ったとする。多くの場合、この奇襲戦がその武将の成功の見本となり、“いざ鎌倉”の重大な局面には、かならずといっていいほど、決戦形式として使用されるものだ。

豊臣秀吉は木下藤吉郎時代、墨俣築城で売り出し、北近江の浅井長政と対峙したのも横山城(現・滋賀県長浜市)。信長の中国方面軍司令官に任じられて西へ遠征してからも、大半の敵地で城攻めをおこなっている。

なかには、わざわざ城攻めにしなくともよさそうな敵に対しても、かならずといっていいほど、秀吉は四方を囲んで攻城戦にもち込んだ。

これはさらに詳細を見ていくと、秀吉の出世の源が、調略によって敵将を寝返らせるという手法をもちいたことと、密接な関係があったろう。

一方、徳川家康はどうかといえば、心密かにその師と仰いだ武田信玄にも言えることだが、この2人は揃って城攻めが大の苦手であった。――ここ一番の決戦は、ともに野戦をもちいた。

関ケ原前夜に家康が講じた策

まず、関ヶ原の合戦から語らねばならない。慶長5年(1600)9月15日、美濃の関ヶ原においておこなわれた、戦国史上空前絶後のこの一大決戦は、東軍を率いた徳川家康が、石田三成を主将とする西軍を一挙にほふり、その後の日本の方向である徳川幕藩体制を、事実上、瞬時にして成立させたものとして知られている。

家康の勝因については、これまでにもいくつかの要因が論じられてきたが、なかでも主因の一つと言われるものに、決戦前夜の家康の策略が挙げられている。

前日の9月14日の時点まで、石田三成をはじめ字喜多秀家、小西行長ら西軍主力は、美濃大垣城(現・岐阜県大垣市)に本拠を構え、東軍との決戦に備えていた。

この地は東山道(中山道)と美濃路を結ぶ交通の要衝であり、東海道と東山道のふた手から西上してくるであろう東軍を迎え撃つには、戦略上、格好の場所であったと言われている。

大谷吉継ら友軍が待機する関ヶ原は、大垣の西方、およそ16キロの距離でしかなかった。この時点では、西軍の方が地の利を得ていたといえる。当然、東軍側は地の利の差をなんとか、逆転しなければならなかった。

そこで家康は、大垣城の主力をおびき出す作戦に出た。