俺にも信長のような戦いができるはずだ…

信玄は軍団に、「浜松城は捨ておき、祝田、刑部、井伊の谷道(いずれも現・静岡県浜松市)を通過して、東三河に進発する」という布告を発した。

この決定を知った浜松城内では、徳川家の重臣・石川数正、内藤信成らが、「このうえは、敵がいかなる動きを示そうとも、味方は城門を閉じて出撃せぬことこそ肝要です。敵が通過したあと、その後方を攪乱するに越したことはありませぬ」口々に進言し、家康に自重を説いている。

同盟者の信長からも、同様の趣旨をしたためた書状が届けられていた。ところが、ひとり家康が納得しない。

「城下を通過する敵に対し、一矢も報いずに黙って見送ったとあっては、武門の名折れとなる」爪を噛みながら、珍しく怒りをあらわにし、出撃の決断を下してしまった。

おそらく若い家康の脳裏には、自分の先輩ともいうべき織田信長が、27歳のおりになした快挙――このたびの信玄と同じく上洛を企てた、今川義元を桶狭間に奇襲した1件が浮かんでいたのではないか。

穿うがった見方をすれば、(自分は今、そのおりの信長より4歳も年長の31歳ではないか、信長にできて自分にできぬことはあるまい)と思ったとしても、不思議はなかった。

2時間で死者1000人以上

家康は本来、血の気の多い人物である。慎重に物見ものみを放ちつつ、家康は信玄の一行が“一望千里”といわれた三方ヶ原の台地が尽きるあたり、祝田と呼ばれる狭所で、そろって食事をとるとの知らせを聞きこむ。

三方ヶ原は浜松城の北にあって、東北から西南に横たわっている高原――ちょうど、のちの関ヶ原のミニチュアとみなしてもさしつかえはなかったろう。

家康はここぞとばかりに奮いたち、一気に甲州軍団を奇襲すべく出撃命令を下した。しかし、実はこれこそが信玄の策略であったことが、その直後に明らかとなる。

浜松城を無視して素通りした、と見せかけて甲州軍団は、食事をとるとのニセ情報を流す一方、家康の出撃を見越して、信玄の采配一つで一糸乱れぬ臨戦態勢をとっていた。

奇襲を企てた家康は、信玄のワナにかけられ、かえって迎撃を受けるはめに陥る。

――結果は、家康の完敗であった。

徳川方はすでに落とされていた二俣城の元守将・中根正照、青木貞治や部将の夏目次郎左衛門吉信などを失い、信長からの援軍の将・平手汎秀(政秀の子)も戦死。死闘2時間ののち、さらに疾風のような甲州軍団の追撃を受け、最終的には1000人以上の戦死者を出している。