今よりもさらに落ちることはない

では、絶望にいっさいの救いがないかというと、そんなことはありません。

逆に、ポジティブにとらえることもできます。

絶望したということは、すなわち「限界を迎えた」「今よりもさらに落ちることはない」状況にあるということです。

であれば、「絶望したのはつらいけれど、望んでいたものはもともと自分には手の届かないものだった」と別の視点でとらえなおしてみたり、「自分にとってそもそも必要のないものだった」と考えることはできないでしょうか。

「ひとつの方向性に対して望みが絶たれた」ということは、「違う方向性に対して可能性が開けた」ということでもあります。もしかしたら絶望を感じた瞬間は、自分にとって本当に大事なものを見極めていくチャンスかもしれないのです。

私は今「大愚元勝」と名乗っていますが、かつては「仏道元勝」という僧名でした。

名前を変えるきっかけになったのは、なにを隠そう「絶望」です。修行中の身だった私は、一生懸命に「なにか覚りを開かなきゃ」「もっと良い人間にならなきゃ」ということをずっと考えていました。

でも、どんなに修行に励んでも、なかなかその境地にはたどり着けません。

日本の僧侶
写真=iStock.com/RichVintage
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絶望は若いうちに感じたほうがいい

人生に絶望した私は、師匠に「もうダメです」という旨の手紙を書きました。すると、返ってきた手紙にこう書かれていたのです。

「落ちろ! 落ちるところまで落ちろ! おまえは大きな愚か者だ。だから今日から『大愚』を名乗れ」

これを読んで気づかされました。「そうか、私は自分の愚かさを認めていなかったのだ」と。そして、「もっともっと」という欲やあがきを捨てて、心機一転やり直す決意を固めることができました。

まさにこの出来事が、私にとって人生の転機になったのです。

だから私は今、次のように考えています。中途半端に受けたショックというのは、致命傷にならないため、人はまた愚かな行為をくり返してしまう。どうせショックを受けるのなら、立ち直れなくなるくらいの大きなものであったほうがいい。

であれば、次のステップに進めるし、似たような過ちをくり返さないようになる。したがって、絶望はできるだけ早く、なるべく若いうちに感じたほうがいい。

というように、完全にプラスにとらえているのです。お寺では日々、お弟子さんたちに「早く絶望しろ、早く絶望しろ」と言っています。みんなけっこうしぶとくて、なかなか絶望してくれませんが(笑)。