※本稿は、大愚元勝『自分という壁 自分の心に振り回されない29の方法』(アスコム)の一部を再編集したものです。
「他人と比べたくなる欲求」があらゆる悩みの元となる
苦しみを生み出す大きな要因のひとつに、「我」というものがあります。「我」とは自我、すなわち私たちが「私」と称しているものです。
人間に限らずすべての生きものにも当てはまることですが、「私」という最重要の存在が、脅かされたり、傷つけられたり、なにか危機的な状況に陥ったりした際にはそれを守ろうとしますよね。
この防衛本能の事を「我(自我)」といいます。これがわれわれが認識している「私」であり、苦しみを生む原因となる「自分」なのです。
次いで要因として挙げられるのは「他人と比較してしまいたくなる衝動」です。
仏教的には、この心の動きのことを「慢」といいます。「我」とセットにすると「我慢」。みなさんがよくご存じの言葉ですので、覚えやすいのではないでしょうか。
ただし、ここでいう「我慢」には、一般的に浸透している「耐え忍ぶ」「辛抱する」というニュアンスは含まれません。「我」も「慢」も仏教用語としては、あまりよろしくない意味合いで使われますので混同しないようにしてくださいね。
「慢」について細かく見ていくと、たくさんのパターンに分類できるのですが、掘り下げて説明していくときりがないので割愛します。大きく次の3つに分けられることを知っていただければ大丈夫です。
自分はこの人よりも劣っていると考える「慢」。
自分とこの人は同じくらいであると考える「慢」。
自分はこの人よりも優れていると考える「慢」。
人間は、社会的動物として集団生活を行うようになって以降、誰もがこのことを意識して日々を過ごしています。意識しているというより、無意識下で心がこの思考に支配されていると表現したほうがいいでしょう。
人は誰もが「比べること」をやめられない
単独行動ならば自分のことだけを考えていればいいのですが、群れができると自然と他人の存在が視野に入ってきます。
群れの秩序を乱すようなことをする人はいないか?
自分の不利益になるようなことをする人はいないか?
そういったことが気になりだし、他人の行動をチェックしたり、自分と比較したりするようになります。ここから「慢」が生まれていったのです。そしてこの心の動きが、「羨み」「嫉妬」「軽蔑」といった苦しい感情を生み出す元となるのです。
「自分は他人なんか気にしない」「人のことなんてどうでもいい」とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。でも、「慢」の具体例を見ると、多かれ少なかれ身に覚えのあるものがあると思います。
街を歩いていて、似たような年格好の人とすれ違うとき、自分より見た目がイケているとか、センスがあるとか、ダサいとか、知らず知らずのうちに比較してしまうことがあるのではないでしょうか。