クーデターに関与した疑い

以後は、家康と築山殿の関係は、悪化の一途をたどったといっていい。そして、最悪の結果を迎える導火線になったと思しき事件が、天正3年(1575)に起きていた。

大岡弥四郎事件。それは岡崎城の南方から武田軍を城内に引き入れて三河国を武田の勢力下に置き、そのもとで信康を盟主とするあたらしい徳川家を築こうというクーデター計画だった。

岡崎町奉行の大岡弥四郎らが首謀者だったが、参加者のひとりが裏切って通報したことで発覚した。弥四郎は7日間にわたって竹ののこぎりで挽かれたのち、妻子らとともに磔刑になっている。

仮に成功していれば、家康は窮地に陥ったと想像されるが、江戸時代前期に成立した『松平記』や、17世紀末に成立した『岡崎東泉記』には、築山殿が事件に関与した旨が記されているのだ。

静岡大学名誉教授の本多隆成氏は「今川氏とゆかりが深く、家康とは不仲であった築山殿には、武田方からすれば付け入る隙があったのであろう」(『徳川家康の決断』中公新書)という見方を示す。そして、このクーデターへの関与を前提にすると、のちに起きたことが理解しやすくなるはずだ。

「医師を招いて不倫をしていた」

さて、その後に起きたことに関しては関係史料が乏しく、いまなお真相が解明されたとはいいがたい。史料が少ないのは、現実に起きたことが徳川家の汚点になりかねないので、隠蔽されたためだろう。これまで一般にいわれてきたのは、以下のような話である。

信康と正妻の徳姫との関係が冷え切った結果、徳姫は信康や築山殿の不行跡を12か条にわたって列挙し、酒井忠次に持たせて父親の信長のもとに届けさせた。そして、信長から内容について問い質された忠次が、10か条まで「存じている」と認めたので、信長が信康の切腹を命じた――。

これは江戸時代初期の『三河物語』に書かれていることだが、「不行跡」の内容については書かれていない。それを同時期に書かれた『松平記』で補うと、徳姫が産んだ子が2人とも女児だったので、信康も築山殿もよろこばなかったこと、信康が粗暴な性格で、たとえば踊りが下手だというだけで踊り子を弓で射殺したこと、などが書かれている。

さらには、築山殿が甲斐国(山梨県)から唐人医師を招いて不倫をしていた、その相手を通じて武田勝頼と内通し、そこに息子の信康を巻き込んでいた、という内容も――。

だから信長は信康と築山殿に不信感を抱き、家康に2人の処分を命じ、家康は泣く泣く従った、というのである。