謀反の疑いによる「処分」
いま「処分」と書いた。そう、信康だけでなく築山殿も「処分」されるのだが、その内容は最後に記す。この処分の原因には、大岡弥四郎事件にさかのぼる家臣団の対立、すなわち家康の浜松派と信康の岡崎派の対立があった、とする見方が、近年、浮上している。
その当時、家康は武田氏の反攻に手を焼いていた。このため徳川家の内部が、それでも戦争を続けようという家康方と、むしろ武田氏と接触しようという信康方に分裂。大岡弥四郎事件もその流れのなかで起きたもので、こうして家臣団が対立してしまったため、武田への内通の責任をとらせることもふくめ、家康みずからが妻子の「処分」を決断した、というものだ[新行紀一『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』(戎光祥出版)内『岡崎城主徳川信康』、柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社など)。
一方、本多隆之氏は、この「処分」が行われた時点では、家康方に歯向かうほどの勢力は徳川家内部になかったとして、家臣団の対立が原因という見方には疑問を投げかける。ただし、本多氏もまた、「処分」の原因に、信康や築山殿の周辺に謀反を疑われる事態が生じていて、謀反の疑いで「処分」されたという見方を示す(『徳川家康の決断』など)。
自分と子供を守るため
では、どう「処分」されたのか。天正7年(1579)8月4日、信康は岡崎城から追い出され、大浜(愛知県碧南市)、堀江城(静岡県浜松市)と移され、その後、二俣城(浜松城)に幽閉され、9月15日、父親の家康から切腹を申し渡され、自刃した。
一方、築山殿は、長男の死に半月あまりさかのぼる8月29日、浜松に近い富塚で野中重政、岡本平右衛門、石川太郎右衛門らによって刺殺され、首を切り取られたという。享年38。
嫁ぎ先が実家筋と対立し、しばらくは捨てられたように実家筋に置き去りにされた挙げ句、正妻なのに、夫が本拠地を浜松城に移したのちも岡崎に残され、目をかけられなかった築山殿。『松平記』によれば、彼女が抱いた嫉妬心は、やがて息子や嫁にも向けられていったという。
真偽はともかくとしても、彼女の置かれた状況を考えれば、その心が夫から離れ、裏切り行為につながるというのは、考えられない展開ではない。また、そのころの徳川家は、武田の勢力に押され、いつ潰えてもおかしくない状況だった。そうであれば、関係が冷え切った夫は捨てて武田と内通し、自分と子供たちを守ろうとしても、それほど不思議なことではない。
だが、それにしても、最期はあまりにもむごい。それを頭に置いて、有村架純演じる健気な瀬名を追うと、『どうする家康』の味わいが深まることはまちがいない。