労働者は自由でもあり「賃金奴隷」でもある

どのように働くかを決めるのも、その労働が生み出す価値を手にするのも資本家。労働の現場には、自由で平等な関係など存在しないのです。だから、労働問題研究の大家である熊沢誠は、「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と喝破かっぱしたのです。そのことがわかっていても、あらゆるものが商品化された社会では、生きていくために労働者は自らの自由を「自発的に」手放さないといけない。そこに実質的な選択肢はありません。

だから、マルクスは現代の労働者の置かれた状況を奴隷制に喩え、「賃金奴隷」とも呼んだのです。でも、私たちは自分が「奴隷」だなんて認めたくないですよね。自分は自由な存在だと思いたい(だから市場で好きなモノが買えることが資本主義の素晴らしさとして謳われるわけです)。この気持ちを利用して、資本主義は私たちをギリギリのところまで働かせ続けるのです。

もちろん、労働者には、仕事を辞めて劣悪な労働環境から抜け出す「自由」もあります。なのに、なぜ現代のメアリー・アンたちは辞められなかったのか。生活がかかっているし、労働者間にも競争があるので、職場で生き残るために頑張るという面もあるでしょう。でもそれ以上に、マルクスは、ここにも資本主義の魔力があると説いています。

労働者を追いつめる“自己責任”という落とし穴

資本主義以前の奴隷は、本人のあずかり知らぬところで売買され、人権も人格も否定されて、家畜のように働かされます。それでも逃げないのは、逃げたら逃げたでむごい仕打ちを受けるからです。

彼らは恐怖心から嫌々労働していました。しかし奴隷は、最低限の生存保障はされていました。家畜をむやみに殺したりはしないのと同じで、奴隷所有者は奴隷をモノとしてそれなりに大切に扱ったのです。

ところが資本主義社会では、誰も生存保障をしてくれません。資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係性からも“フリー”になる――つまり、切り離されてしまうということです。

だから、今は何とか生活できていても、体を壊したり、失業したりすれば生活が立ちゆかなくなって、ホームレスになってしまうかもしれない。そんなリスクに常にさらされている労働者はみな「潜在的貧民」だとマルクスは言います。

国立オリンピック記念青少年総合センターに開設された、東京都の「公設派遣村」で入所の順番を待つ人たち=2009年12月28日、東京・渋谷区
写真=時事通信フォト
国立オリンピック記念青少年総合センターに開設された、東京都の「公設派遣村」で入所の順番を待つ人たち=2009年12月28日、東京・渋谷区

リーマンショック後の派遣村の活動で有名になった湯浅誠が、日本はセーフティーネットが脆弱ぜいじゃくで、一度仕事を失うと一気に生活保護まで落ちてしまう「すべり台社会」だと名付けたことを思い出していただくといいかもしれません。資本主義社会の労働者は、そんな不安定な環境のなかで自分の労働力という商品だけを頼みに、それをどこに売るかも自分で決めて、必死に生きていかなくてはなりません。ここに「自己責任」という落とし穴があります。