繰り返される洪水が京都を救った

平安時代末期、時の権力者白河法皇の有名な「意にならぬもの、賀茂河の水、双六のさい、山法師」いわゆる「天下三不如意」の逸話がしっかり答えを出している。繰り返される洪水が都を洗浄し、千年の都を常に洗って浄化してくれたのである。度重なる洪水が増え続けようとするスラム街の糞尿を水に流し、市街地の衛生状態を保ってくれたおかげで、街を維持することができたのである。

洛中洛外図上杉本(1565年、狩野永徳作、国宝)の右隻(部分)
上杉本洛中洛外図(1565年、狩野永徳作、国宝)の右隻(部分)。水害で流されてもすぐに建て直せる、板張屋根の庶民の家々が描かれている。(画像=米沢市上杉博物館/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天正6年(1578年)5月、信長が中国攻めを始めようとしていたとき、京都では大雨が三日三晩降り続き、洪水が起き、四条河原町付近まで水につかったという。しかし、1カ月後の6月14日には祇園祭が催されたという。すぐに水が引く町だったのだ。

室町時代に描かれた「洛中洛外図」にもその答えがある。板張の屋根、板葺土間、網代壁の粗末な家並が続いている。水害で流され、壊されても、また、たくましく建て直しができるマチの姿がそこにある。洪水にうまく耐える術がこの都にはあった。江戸の町の300年は、水ではなく火、火事で発展し続けたことも書き加えておく。

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