和気清麻呂の運河の実像
和気清麻呂がどこからどこまで開削したか記録にない。多くの地図を見ると猪名川の河口から豊中、吹田あたりまで中世まで海であったとすれば、安威川から淀川までの3キロメートルほどの小さな水路を掘削したと考える。現在の尼崎の神崎から摂津までの10キロメートル以上の長い川を掘削したのではない。大勢の人夫が川筋と並行して小さな溝を掘っただけのもので、淀川の洪水防止ではない。
ちょうどこのころ行基上人が瀬戸内海航路の摂播五泊を開いた。摂津・播磨五つの港、河尻(尼崎)、大輪田(神戸)、魚住(明石)、韓泊(姫路)、室生(たつの)である。これで播磨灘から淀川河口まで船でつなぐことができた。
そして、東の起点の河尻(当時の猪名川の河口、現在の神崎町)は京都への淀川水運の出発点となった。河尻を出て長岡京まで、一泊目は淀川との合流点の江口(大阪市東淀川区)である。この付近の干満差は約2メートル、江口付近で潮が止まったのではないか。潮が止まるところには遊郭ができた。摂播五泊では河尻、西の大輪田(現在の福原)、室生にも遊郭ができた。当時は港がつくられたらすぐに遊郭ができたのである。江口の上流にもう一つか二つ港が必要である。
私は、新たに都を計画している長岡京まで河口から二つか三つさらにつなぐ港が必要であったと考える。船は一日漕いだら必ず休むからだ。
平安京にも引き継がれた公衆衛生問題
その後794年には平安京に遷都され、京都は明治維新まで日本の首都でありつづけた。京都の場合、運よく賀茂川が北から南に流れるよう土地が傾斜していた。上京の上流部を賀茂一族が昔から支配し、遷都のときにはすでに上水の水供給システムができていた。また、秦氏が灌漑用水を桂川から引き入れていた。水運として淀川の側方運河として利用された神崎川があった。
問題は平城京でも苦労した公衆衛生であった。平安時代の京都も例外なくすぐに糞尿まみれのマチになった。京の都大路の発掘調査によれば、築地塀の裏は公衆便所であったという。大勢の糞尿で固まった糞石という塊が側溝や築地の至る所で発見されたという。公衆便所がなかったからである。さらに側溝には馬の死骸、行き倒れの死体まであったという。公衆衛生の対策がない都が、千年以上も続いてきたのは、皮肉にも首都である京の治水対策ができなかったことによる。