古代につくられた藤原京や平城京といった都はいずれも短命だった。なぜ平安京だけは長く続いたのか。工学博士で元国土交通省港湾技術研究所部長の長野正孝さんは「かつての都では糞尿処理に問題があり、衛生状態が悪くなりやすかった。一方、平安京は繰り返される洪水で浄化されたため、千年の都となれた」という――。

※本稿は、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

平安京の復元模型(平安京創成館の展示物)
平安京の復元模型(平安京創成館の展示物。画像=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

「水」で失敗した藤原京と平城京

天武天皇によって、唐の長安に模した藤原京が676年につくられ、続いて元明天皇によって710年に平城京に遷都が始まった。中国の最新の土木建築技術が導入され、碁盤の目の道路がつくられたことが知られている。

さて、藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる都で、当時存在した奈良湖とは一番離れた地域である。それはなぜか。壬申の乱で天武天皇が勝利した直後であり、外患を防御できる盆地の一番奥に都をつくったと考えられる。その結果、舟運の便が悪くなった。結果、平城京に遷都されるまでの時間は短かった。さらに平城京に710年に遷都されてからも、恭仁京など幾つもの都を転々とし、平城京に落ち着いたのは745年のことであった。その後784年、長岡京に遷都されるまでの少なくとも39年間は、平城京が政治の中心地であった。

平城京は、物流面では北側に淀川から大阪湾に抜ける木津川と接し問題なかったが、飲み水の確保が難しかった。最盛期には10万人以上の人々が暮らしていたが、水源は佐保川一つであったため、生活排水による汚染が進み、疫病がはやりだした。井戸は枯渇し、汚染され、たちまち糞尿まみれの街になってしまった。碁盤の目の道路をほどよく洗い流すような水が必要であった。中国の外形上の模倣だけの都市計画では無理があった。水をコントロールできなかったと考える。