薄暗いバーの壁には鹿の頭部の剝製がかけられていて、カウンターには火にかけられたいくつものビーカー、生薬を挽いたり、すり潰したりするための道具「薬研やげん」などが置かれている。棚には、なにが入っているのかわからないガラス瓶が所狭しと並べられていて、怪しげだ。そして取材の日、鹿山が手にするカクテルマドラーは、くろもじの枝だった。

東京・西新宿のバー「ベンフィディック」の店内。まるで魔女の実験室のような雰囲気だった。
筆者撮影
東京・西新宿のバー「ベンフィディック」の店内。
店内には剝製が
筆者撮影
店内はまるで魔女の実験室のような雰囲気だった。
カウンターには火にかけられたいくつものビーカー
筆者撮影
火にかけられたいくつものビーカーがカウンターに並んでいた。
店内にはガラス瓶が所狭しと並べられていた。
筆者撮影
店内にはガラス瓶が所狭しと並べられていた。

まるで魔女の実験室のようなバーと唯一無二のカクテルは、どのように生まれたのだろうか?

近所のゴルフ場でカクテルを作ってみた

鹿山は1983年、埼玉県の玉川村(現・ときがわ町)で、酪農家の次男として生まれた。小学校1年生になると、朝5時起きで牛にエサをあげたり、フンの掃除をしたりと手伝いをするのが日課になったが、まったく楽しめなかった。

「多分、親父は後を継がせたかったんじゃないですかね。でも僕はめっちゃイヤでした。うちの小学校、毎年小4の社会科見学が僕の実家なんですよ。それもやめてほしかったですね」

「農」への意識が変わるのは、大人になってから。小中高と野球に熱中していた鹿山は、高校3年生の夏、最後の試合に負けて引退すると、手持ち無沙汰になった。その時、たまたま新聞の折込広告で近所のゴルフ場の求人を見つけ、「なんかよさそう」とアルバイトを始める。