「昭和の大合併」で市町村は5分の1に

一方、1888年に市町村制が公布され、翌年に施行された(遅れた道府県もある)。この「明治の大合併」で小学校の学区にあたる人口3000人ほどを最小単位として、数個ずつの村が合併して、全国で1万5859市町村が成立した

その後、郊外の合併が徐々に行われ、京都市の場合だと大正時代に市電が走っていた範囲が、昭和初年に伏見とか嵯峨野まで合併された。東京でも関東大震災の頃は、新宿駅や渋谷駅のあたりは東京市外で昭和になっての編入だ。

昭和22年(1947年)地方自治法施行時の市町村数は1万505だったが、新制中学を設置する必要もあり、昭和30年台の「昭和の大合併」でだいたい3300に絞られた。その後は大きな変化は起きなかった。市町村長や議員が農村部に多くいることが、保守勢力を磐石にすることに加え、共産党が典型だが地方議員からの上納金も大事な収入源にし、野党も議員数を減らしたくなかったからだ。

どんな市町村でも予算とインフラが「完備」

予算や公共施設が市町村には必ず一つ配分・設置などされて、人口比例より手厚い施策がばらまかれた、竹下登内閣の「ふるさと創生一億円」などその典型だ。だが、平成になって、財政特例措置(公共事業など優遇)を餌に少し合併が進み、現段階で1718市町村となっているが無駄が多すぎる。

ヨーロッパの小自治体では複数の自治体の助役を一人が兼任しているとか、役場の窓口が開くのも週に一日だけとか、事業は複数の自治体の協同組合で行っているのとは大違いだ。

東日本大震災・福島第一原発事故の復旧でも、元の市町村を復活させる合理性はなかったし、南海トラフ地震対策も、市町村全体が危険地域である場合、市町村の人口を維持することに拘って対策を講じることは住民の命を危険にさらしかねない。

会議や叙勲における市町村の首長や議員の扱いが、自治体の規模にかかわらずあまり変わらなかったりすることも、合併をしないことへのご褒美になってしまっている。