「自己肯定感」は他人と比べることで得られる感覚
昨今、「自己肯定感」という言葉が溢れている。「自己肯定感を高める食事」とか「自己肯定感を高めるファッション」などを見聞きしたこともある。しかし、ここで問題なのは、自己肯定感が高いことが本当にいいことなんだろうかということだ。そもそも自己肯定感は高める、低めるという類のものなのだろうか。
自己肯定感というと、一般的なイメージとしては「私はできるぞ、すごい業績を上げているぞ、何でもできる万能だ」という気持ちのことだと思われる。自分が思ったとおりにことがうまく運べば肯定感が増すし、優越感を得ることになる。できなければ劣等感につながる。
これは結局、自分と他人を比べることで得られる感覚なのだ。基準となっている他人よりも自分が上にいれば自己肯定感が増す。あるいは、過去の自分よりもより良い自分になることや、より高みを目指さなければならないといったことが強迫観念のように求められている。
もちろんネガティブよりはいいけど、常に向上していかなければならないのは少しプレッシャーではないだろうか。キラキラした人たちが毎日のように成功体験を報告してくるのを見て、自分も向上しなきゃと思うのは疲れてしまうものだ。
大切なのは自分を基準にする「自己効力感」
疲れてしまう原因は、結局、「過去への後悔」と、「将来への過度の期待」によって成り立っているからだろう。「今ここにある自分」は、結局置き去りにされている。本来の自己肯定感の定義は「ありのままの自分を受け入れよう、それを認めよう」ということだったと記憶している。いつからこのように拡大解釈されるようになったのかは不明だ。
劣等感を抱えている自分、挑戦したけど失敗した自分、それも含めてまず自分を受け入れよう認めようということだ。なので、そもそも自己肯定感は高めるとか低めるといった類の感覚ではないのだと思う。
それよりも、僕が大事にしているのは、「自己効力感」という感覚だ。これは、自分が何かをしたということがしっかりと周りに影響を及ぼしているという実感のことだ。もちろん、自分の提案したアイディアが採用された、賞をとったというのも大事だけど、ずっとやろうと思っていたお皿洗いをやったとか、ToDoリスト(しなければならないことリスト)が1つ減ったとかでも目に見える効力感だと思う。そしてそれはなにも他人に肯定される必要はない。
これは、子育てや教育においても重要な視点ではないだろうか。たとえば、いろいろなことを自分自身でやってしまった方が絶対早く済む。だけど、それをあえて子どもや後輩にやってもらう。その結果の良し悪しは問わない。やってくれたことに対して感謝を伝える。とても当たり前のことのように思えるけど、実践するのは難しいかもしれない。
人の心や行動をどうにかしようと思うのは大変なことだけど、少なくとも自分の力で制御できるはずのことが、ちゃんと自分の意図した通りになるという実感を積み重ねていくのは、精神衛生上も重要なことだと思う。