「形あるものは形ないものになる」仏教に通じる考え方

般若心経の有名な一節に「色即是空 空即是色」という言葉があります。形あるもの(色)は、形ないもの(空)になる。逆もまた真で、形なきもの(空)も、また形あるもの(色)になる、という意味合いの言葉です。

僧侶の手
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この言葉は、水や雲、光やいのち、自然界のあらゆる現象の根底にある真実を語っていると思います。浄土真宗の金子大榮は、この言葉を「花びらは散っても、花は散らない」と現代語訳しました。

つまり「物質としての花びら(色)はいずれ散る運命にあるが、過去に存在していた、生きていたということは、どうあっても散らないものである(空)」ということです。

散りゆく花びらや自然の生成流転する情景を見ながら、人生と重ね合わせ、滅びゆく肉体や別れなど、移ろいゆく無常を全身で感じ取ることがあります。そうしたときも「そうならなければならないのならば」と、ありのままのすべてを受け止めて、「さようなら」という別れの言葉を発する。

そのことで、過去の厚みの中に今わたしたちは存在していること、そのうえで未来に向かって生きていくことを改めて受け入れるのです。連続する無常で悠久な時間を生きていることを、日本語の「さようなら」という言葉は生きた哲学として表現しているのでないかとわたしは思います。

欠けるからこそ“新しい何か”を受け入れることができる

生み出された言葉が無数にある中で、わたしたちは「さようなら」を別れの言葉として選び、いまだに使い続けています。「さようなら」では五音ですが、「さよなら」だと四音、「さらば」だと三音、「ほな」だと二音にまで簡略化されます。そうした圧縮された音の響きの中にも、日本語が持つ長い歴史と深い思いが光のように重なって含まれているのだと感じます。

別れのときには、悲しみや喪失感が伴います。喪失感は、何かを失い欠けたことを感じている感覚ですが、別の観点でいえば「欠けたからこそ、その場所に新しい何かが入ってくるスペースが生まれている」ということでもあります。

曹洞宗の開祖である道元禅師の『正法眼蔵』の中には、「放てば手に満てり」という言葉が出てきます。これは「手の中に何かを掴んでいると手の中に何も入って来ないが、いったん手放してみると、その空いた手に別の何かが入って満ちてくる」という意味だと理解しています。