自由の代償は弱者にのみ降りかかる
もっとも、現時点ではまったく困窮していない、なおかつ今後も困窮する見込みの薄い人にとって、「いざという時」はまずやってこない。自分に与えられた当然の権利を行使することによって生じる副次的影響を自分のこととして想像する理由がない。ひき続き、個人が持ちうる自由を最大限謳歌することに、なんらためらう道理がないのだ。
しかし、進退窮まるぎりぎりのラインで生活している人やその子どもはそのかぎりではない。他人から干渉を受けない自由が全社会的に是認される代償として生じる「助けてくれる他者の不在」は、厳しい生活環境に置かれた人びとにとっては大きなリスクになる。
この社会のほとんどの人が、いますぐ子どもを見捨てなければならないほど生活が致命的に困窮していることはない。だからこそ、個人主義的な社会の副産物に臆することなく「自分が必要としているとき以外に声をかけてくる者は、自由の侵害者であり、安全・安心な暮らしを脅かす加害者である」とするいまどきの論調に素朴に賛同する。
この社会的風潮は、だれかが気軽に権利を行使するたびに強まっていく。迷惑な他人に煩わされない自由で快適な社会は、大勢の人びとに快適な暮らしをもたらし、ストレスフリーな人間関係を実現していった。だが、だれもが歓迎して謳歌する、自由で個人的で快適な社会で、その代償を支払ったのは、アパートの一室のトイレで産まれ落ち、そして見棄てられた子どもだった。
「おせっかいで親切な人」が通りかかることはもうない
置き去りにされて死んだ子どものニュースに悲嘆にくれ、私が親ならこんなひどいことは絶対にしないのに――と涙を浮かべながらニュース映像を眺める人びとは、善人であることになんの疑いもない。しかしながら、まさか自分たちが毎日なにげなく行使しているその自由こそが、間接的に彼女たちをこのような結末に向かわせているとは想像できない。
だれも知らないアパートの一角には、多くの人が悪気なく享受した快適さによってもたらされた静寂が広がっていた。だれの視界にも入らないその場所では、助けを求めようにも、おせっかいで親切なだれかが通りかかることはない。そういう人を迷惑な他人だと疎んじてきたのは、ほかでもないわれわれだったのだから。
われわれの快適な暮らしのために、どこかの街の片隅で、生まれたばかりの子どもは死ななければならなかった。