「○○を倒せば世界はもっとよくなる」。そんな過激思想に共感する人が増えている。なぜなのか。文筆家の御田寺圭さんは、「現代では多様性が重んじられ、だれもが肯定されるようになった。だからこそ、だれかを断固として否定するための口実を提供する過激思想(ラディカリズム)が存在感を強めている」という――。

※本稿は、御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)の一部を再編集したものです。

スマホを持って突き上げた拳
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共鳴するラディカリズム

ある過激な思想に耽溺していた人が、しばらくすると別の過激な思想の信奉者になっていたり、もしくは両方をかけもちしていたり――といった光景はよく目にする。「エコロジー系のオピニオンリーダーを信奉していた人が、次は反原発運動にのめり込み、最近では反ワクチン活動家になった」「格差反対運動に熱心だった人が、反差別活動家になり、ラディカルなフェミニズム思想にも賛同していた」――といった具合だ。

いくつかの思想や運動には共鳴性がある。とりわけ、反ワクチン、極端な脱原発運動家、フェミニズム、ヴィーガンなど、ラディカルでピーキーなリベラル/レフト(左翼)系思想では、こうした傾向が顕著に認められる。

反ワクチン論に傾倒している人が、同時に過激な反原発論者であったり、あるいはヴィーガンである人がフェミニズムに傾倒していたりといった光景は日常茶飯事だ。ともすれば、列挙したそれらすべてを内面化して、界隈を渡り歩いているような人もいる。ひとりふたりの話ではない。今日では、SNSを少し眺めてみればいくらでも見つけることができる。特定の思想が強い磁力で相互に作用し合っているのは、おそらく偶然ではない。