共鳴性によってもたらされた権力
「生きづらさを超克するための努力をするのではなく、自分の周囲や社会が変わって、自分がつらくならないように配慮してほしい」――とする、生きづらさを抱える人びとの深層にある願いにも、共鳴するラディカリズムは正当性を付与してくれる。ワクチンをやめれば、肉食をやめれば、男が謝罪すれば、○○党の支持者が考えを改めれば、私は生きづらさを感じずに済むのに――それらはかつて、ひとりよがりの、ともすれば「わがまま」などといわれて一笑に付されていた考えだったが、共鳴して増幅されたそれらを、もはや社会は無視できなくなった。
自らは現在の場所から一歩も動くことなく、共鳴性によって得た大きな権力により、他人や世間に影響を及ぼすことができるようになる。生きづらさを抱える参加者たちは、往々にしてこれまで縁遠いものだったであろう自己有能感さえ得ることができた。環境に配慮しない企業は悪だ。女性を蔑視するあの人物は悪だ。公憤を掲げる人びとが押し寄せれば、巨大な権力に見えた相手が平伏して従う光景が広がった。
結集した声によって達成される「世直し」の過程において「いままで自分たちの言葉は、不当にも耳を傾けられなかっただけであり、本当は自分たちこそがただしかったのだ」という確信がますます深まっていく。傍から見れば集団的先鋭化・極性化だとしても、しかし当人たちの主観ではそのような認識はない。ますます共鳴性を拡大し、純化しながら、自分が社会に寄り添うのではなく、社会が自分に寄り添うことこそが正道であると語気を強めて説く。
「多様性」の時代の不安と疎外感
長い歴史の中で、多くの人びとの人生を、ときにやさしく、ときに冷酷に規定してきた「大きな物語」は失われた。その空席を埋めたのが「多様性」だ。一人ひとりが、大きな権力や規範体系によって縛られることなく、それぞれの自由を謳歌できる時代となった。そこではすべての人が「ただしい」とされた。
だが、だれもが「ただしい」と肯定されているはずなのに、それでもなお生きづらさを抱えてしまう人がいる。この多様性の時代に感じる生きづらさは、不安と疎外感をかえって高めてしまう。
「この世界は、みんながただしいはずだ。それなのに、どうして自分はいまこんなに、つらくて、苦しいのだろうか(もしかして、自分は間違っているのではないか)」という疑念がますます大きくなる。「だれもが肯定されている」世界は、心身ともに傷つき弱った人にとっては、よりどころを失った苦しみだけが付きまとう世界だった。