「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えた人びと

こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動を見つめていると、ある種の共通点が見えてくる。すなわち、共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えているという点だ。心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱ぜいじゃくとなる。

生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を細かく解きほぐして消化していくような、根気を要する作業に耐えうる認知的リソースがない。

心も体もすでに疲弊し切っている人が、その上でなお、自分の苦しさをもたらしている根源的な事象について多面的・多角的・客観的・相対的に分析して、その複雑な機序と構造を理解するのは、相当に困難な試みになってしまうことは想像に難くない。すでにそうした余力が奪われてしまっていて、ただ現実の苦しみに必死に耐えるしかなくなっているからこそ「生きづらい」のだ。

拳を上げた人々
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責任を「外部化」してくれるシンプルな物語

「生きづらさ」で窮している人が、「複雑性」と対峙たいじするという迂遠な作業から遠ざかり、代わりに目の前に提示されたシンプルな物語に身を委ねたくなるのは、自然のなりゆきである。弱っている人は「複雑系」への疲れと、「単純系」への憧れを持ってしまう。身も心も弱り、疲れ切っている人の目の前に提示されたシンプルな物語が、なおかつ責任を外部化するものであれば、それはなおのこと魅力的に見えるようになる。

たとえば、ラディカル・フェミニズムであれば、「あなたがこれまで抱えてきた生きづらさは、個人的な努力や能力に帰するところではなく、男性あるいは男性社会によってもたらされた不当な搾取であり、加害行為なのだ」と説明される。そう説かれる者の責任の一切を外部化し、「生きづらさ」によって消耗し切った女性たちを次々に動員していく。