「大きな物語」の復活を願う人びと
自らの「ただしさ」を信じられなくなった人びとは、「大きな物語」――すなわち、「ただしい」「ただしくない」がはっきりと分けられ、従うべき筋道として「ただしい」側が示される物語――が恋しくなった。生きづらさをつくりだしている悪の名を明確に呼ばない多様性の優柔不断さに嫌気がさし、自分たちの「ただしさ」と別の人の「ただしくなさ」がはっきり提示される世界への再構築を望んだ。特定のだれかについては「ただしくない、間違っている、倒されるべきだ」と示してくれる秩序体系の復活を求めたのだ。
だれもが肯定される現代だからこそ、だれかを断固として否定するための口実を提供するラディカリズムはその存在感を強めている。
「多様性」の反動として生まれたラディカリズム
今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動は、その党派性にかかわらず、複数の「ただしさ」を提示することで社会的統合を目指す「多様性」の反動として生まれたものだ。
右派左派それぞれの政治的系統に顕在化するラディカルで暴力的な思想運動は、その行動様式や価値体系や政治的指向性はそれぞれ大きく異なっていたとしても、しかしいずれも「多様性」の反動によって生まれた、血を分けた兄弟たちである。
トランプ主義、極右政党の台頭、ヴィーガン、Antifa、ラディカル・フェミニズム、反ワクチン、Qアノン――枚挙にいとまがない過激思想の台頭は、ここに集まるだれもがただしいと肯定される時代に生きる人びとが、ついにそのただしさの寛大さに疲れ果て、邪悪な巨人とそれを倒す勇者の叙事詩をふたたびこの世に求めた結果である。