「子どもに近づいてくる他人は退けてもよい」という大義名分

「子どもに触ろうとしてくる他人」「子育てに対してあれこれと口出ししてくる他人」を、迷惑な他人、もっといえば安全で安心な暮らしを脅かす不快な他人として定義し、これらを排除することで、自由で快適な生活を手に入れてきた。かつての時代の親たちがそのような他人を必ずしも歓迎してきたわけではない。ときには押し付けがましく、鬱陶しいと思ったこともあっただろう。けれども、他人とは得てしてそういうものだという、ある種の諦念があった。しかしながら、現代社会はそのような人を退けてもよいとする大義名分が人びとに付与されている。

こちらがニッコリ笑うと反応し、小さな手足を動かす赤ちゃん。街で見かけると、他人の子であっても声をかけたくなってしまう存在だ。かわいさあまって、その小さな体を触りたくなってしまう人も多いのではないだろうか。
だが、ちょっと待ってほしい。いくらかわいいからといって、許可なく子供を触るのはルール違反だろう。実際、他人のそういった行動を不快に思うママは少なくないようで……。
井上祐亮「赤ちゃんを無断で触る他人にイライラ… 私が神経質なだけ?とあるママの葛藤」Jタウンネット、2020年5月6日

個人的な便益と引き換えに失われたもの

いますぐにでも助けを求めなければ生活が危ぶまれるほどには、経済的にも人間関係的にも困窮していない人にとってみれば、自分がまったく望んでいない人物から、まったく望んでいないタイミングで関わりを持たれることは、ほとんど無用なことだ。社会生活を平凡に送っていくことにはなにも困っていない人に、おせっかいな他人が日常生活の場に現れると、そのたびに歩みや作業を止めてニコニコと愛想笑いを浮かべて受け入れなければならない。

そんな規範がいまだに存在することは、自由で快適な暮らしを享受する個人の権利が侵害されているようにも感じられる。拒絶したくなっても無理はない。現代人の感覚からすれば、自分の私的領域にたやすく他人を招き入れることを平然と受け入れていた時代の方がおかしいと感じるだろう。

他者からの不愉快な干渉を最小化し、個人主義的な社会生活の便益を最大化するライフスタイルは、その代償として、いざという時に助けてくれる他者が自分のもとに馳せ参じてくれる可能性をも一緒に除去してしまうことになった。