社会が「正常運転」していたからこそ生まれた悲劇

我が子を長時間にわたって放置し死なせた加害者である母親が、しかし他方では社会的にも経済的にも疎外され、だれにも助けを求められない孤立状態であったことは疑いようもない。彼女は加害者であり、同時に被害者でもあった。この両面性が、彼女とその子どもの身に悲惨な結末をもたらした。

このような凄惨せいさんきわまる事件が起きるのは、社会が道徳的に頽廃たいはいしているからではなく、経済的に衰退しているからでもない。ましてや、現代社会が全体として機能不全を起こしているわけでもない。無残としかいいようがない帰結がもたらされたのは、「社会的機能不全」ではない。逆である。大勢の期待するとおりにこの社会が正常運転していたからこそ、この結末が導かれた。

夜のアパートの明かり
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私たちが望んだ「だれにも煩わされない社会」

われわれはいま、自由な社会に生きている。

この社会が自由であることをこの上なく愛している。自らが享受している権利である自由を、だれにも邪魔されることのない社会を肯定し、そして推進している。末永く継承されるよう、努力を惜しまない。

自分の望んだように自由にふるまえること、それは他者からの望まない関わりや強制を拒絶できる権利を有することと同義である。だれもが愛してやまない自由という名の権利は、この社会で自分の存在そのものを確立する大前提として肯定されてきた。

他者からの関わりは、自分が気に入らなければ拒絶できる――そのような自由は、とりわけ子育て世代の人びとから強く求められてきた。自分がいま育てている小さな子どもに、不審な他者からの不要な接触を受けるリスクを最小限にするためだ。「子どもとその親にとって安全・安心な社会を実現するべきである」という名目で、こうした社会的要求は肯定されてきた。

子どもを連れて歩いていると、いっさい面識のない間柄であるのに、突然声をかけてきたり、さも親しげに子どもに触ってきたりするような人物は、ひと昔前であれば街の至るところで頻繁に見かけられたものだ。子育ての助言をしたがったり、あるいは単に子どもをあやしたかったりと、目的はさまざまだった。

だが、今日においてはそのような人びとは、親たちからすれば不審人物であり、自分と子どもの安全・安心な暮らしを妨げる迷惑な他者であると見なされるようになった。「他人が危険な感染症のリスクを持っているかもしれない」という懸念が多くの人にとって現実的なリスクとして認識されるようになった時代にはなおさらだ。