「面倒くさい他者」と一緒に「親切な他者」も排除した
幼い命が失われるニュースに哀しみ、憤る人びとも、他方では「迷惑な他人を一刀両断」するようなテレビ番組や、インターネットの話題を好んでいる。
子育て中の母親に不躾な助言をしてきたり、上から目線で注意をしてきたりするような親族や他人に対して、胸のすくような切り返しをぶつけてやった――という類いの、俗にいう「スカッとする」コンテンツは、つねに多くの人から好まれており、似たような話題は毎回多くの共感や賞賛を集めている。
この社会で暮らすだれもが、自分が本当に困っているときにだけ、「望ましい関わり」「本当に有益な援助」を提供してくれる人が現れてくれたらいいのにと願う。だが、「面倒くさい他者」「煩わしい他者」「腹立たしい他者」との関わり合いが時折発生する状態を受け入れなければ「窮状に駆けつけてくれる親切な他者」は現れない。都合のよい他者のみを選択的に温存しておくような方法はない。自分にとって害や不快感のある人びとを排除して、快適な暮らしを選ぶのであれば、自分にとって益や助けとなる人びとの登場をも同時に諦めなければならない。
生まれてからわずか数カ月でこの世を去った子どものニュースはあまりにも悲惨だ。現代社会で起こるべき出来事ではない。しかしこの悲劇は、多くの人びとが、自分にとって益のない、不快で有害な他人に関わらなくて済む快適性という恩恵を得るために社会を改善させた結果として生じたものだ。「社会の責任」や「政治の責任」として切断処理して仕舞いになる問題ではない。現代社会の人びとが「自由」という名の神の祝福を得るための、いわば生贄として捧げられたのだ。
孤立していた母親もまた「遠ざけられる人」だった
我が子を棄ておいて死なせてしまった悲劇的な事件の加害者として報じられた女性についても同じことが当てはまる。人びとの視界に入らない、遠く離れた場所から伝えられる「ニュース」だったからこそ、彼女は多くの人から同情された。
この「ニュース」に同情を寄せていた人びとでさえ、自分の暮らしている街や人間関係の近くにこうしたリスクを抱えていそうな人がいることに気づいたら、かれらはじつに穏便かつスムーズな所作によって、こうした人を遠ざける。
一人ひとりが自由で快適な暮らしを送る現代社会においては、なにやら深刻でハイリスクな問題を抱えていそうな人もまた、「面倒くさい他者」「煩わしい他者」「迷惑な他者」として疎外される。