「休日は年末に1日だけ」という生活に疲れた

私は2020年8月31日、47歳になったばかりのころに「セミリタイア」を宣言した。

1997年から2001年まで会社員として働き、以後はフリーのライター・編集者として仕事をしてきた。2006年からはネットニュース編集業にも参入したため、業務は激増。なにしろニュースサイトは毎日更新しなくてはならないため、年間の休日は年末に1日だけという“IT小作農”生活を何年も続けた。

ノートパソコンの前で頭を抱える男性
写真=iStock.com/Fajar Kholikul Amri
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そして四十路を迎えた2013年、はたと思った。「こんなに多忙な日々を65歳まで続けるのは、体力的にも精神的にも無理だ」と。さらに「おそらく50歳を超えたら、編集センスも若者にかなわなくなるだろう」といった自身の劣化も肌感覚で予見した。ならば「衰えた」「年をとって使いづらくなった」などと言われてクビを切られる前に、自ら土俵をおりて、勝ち逃げしよう──そう考えるようになった。

ちょうどそのころ、東京五輪の開催も正式決定したので「会期中はネットニュース編集者として大会を盛り上げるべく全力を注ごう。それを最後に、現場の第一線から退こう」と決意。「東京五輪が閉幕する2020年8月まで走りきる」と覚悟が決まると、仕事もそれほど苦痛ではなくなり、ゴールを迎える日が来るのを楽しみにするようになっていった。

結果的には、新型コロナ騒動の影響で東京五輪の開催が1年ズレてしまったわけだが、2020年8月というゴールを先送りする気にはなれなかった。無事にそれなりの金額を貯めることもできたので、有言実行でセミリタイアをし、編集業からは手を引いた(もちろん「やってほしい」と請われればまだ十分こなせるから、今後も「編集者」という肩書は外さないが)。

セミリタイア後、業務量は以前の3割に激減

2020年11月には、東京から佐賀県唐津市に拠点を移した。現在、月に25本ほど連載の執筆を抱えるほか、イレギュラーでいただける執筆や講演の依頼などもこなしながら、月に1回は上京して「ABEMA Prime」というネット配信の報道番組にも出演している。

年収は以前と比べて大幅に減ったものの、貯金はいまでも増え続けているから、そこそこ稼げているのだろう。編集担当・U氏は「中川さん、セミリタイアしたと言っているけど、バリバリ現役じゃないですか」と苦笑していたが、私からすれば業務量はネットニュース編集に携わっていたころの30%ほどになったわけだから、十分セミリタイアである。

いま、私は特に節約をするわけでもなく、過去と同レベルの生活を送っている。ただし、飲み会の機会は減った。東京で暮らしていた頃は同業の若者たちと連日のように飲んでいたため、私がカネを多く支払ってもいたし、3次会まで飲み明かすこともザラだった。だから、下手をすれば一晩で3万円以上使うこともあった。一方、唐津では基本的に割り勘文化なのと、まったく異なる業種の人々と付き合うため「先輩・後輩」的な関係性はなく、奢ることは滅多にない。