実は、司馬さんは、私にとって、生きているときから懐かしい人でした。

私が自著を送るようになって、手紙のやりとりが始まったのは80年代の半ばでした。私とは23歳も年が離れているし、思想的・気質的にも違いがあります。にもかかわらず、司馬さんは私の書いたものをよく読み、あたたかい手紙をくれました。

ペリーが日本に白旗を送りつける前、日本人はどういうやり方で降伏を相手に伝えていたのか。私が『白旗伝説』を書くなかでどうしても知りたかった疑問を送ると、司馬さんは丁寧に返信してくれました。槍の上に陣笠を乗せて振ると、相手からは人が首を振っているように見えるが、高さが馬よりも高いため、地上の人の首でないことはわかる。何か話したいことがあると敵に伝わり、交渉が始まる。それを原稿用紙に色鉛筆で絵を描いて説明してくれるのです。このようなことに答えられる人は、歴史学者の中に一人もいなかった。そうした貴重な知識を後生に伝えるために、時間を割いて手紙をしたためてくれる。司馬さんはそういうあたたかみを持った人でした。

沖縄戦で、白旗を掲げて壕から出てきた少女の有名な写真をご存知でしょうか。沖縄大学の集中講義でこの写真の話をしたら、「その少女は私です」と、偶然にもあるご婦人が名乗り出てきた。『白旗伝説』が出た後、司馬さんはそのエピソードに触れ、「“白旗少女”に出会われたこと、人生とはそういうときのためにあるのでしょうね」と、人生の先達らしい含蓄のある一節を書いて贈ってくれました。司馬さんからいただいた手紙の中で、これも忘れられないものの一つです。

司馬さんからいただいた言葉は、何かしらの啓示を含み、私を鼓舞してくれました。懐かしさとは、自分は本来こうありたいが、まだその点に欠けていると思うときに抱く感情だと思いますが、私にとって、司馬さんはまさにその懐かしい人だったのです。

司馬さんは晩年、政治的な世界に引っ張り込まれたようなところがありました。しかし、私には、司馬さんは物語作家で終わりたかったように見えました。そう考えると、好きな司馬作品を手に取って、「私はこの人が好きだ」「いやこっちの生き方に共感する」と、それぞれに「彼」の物語、「もう一つの日本」の物語をじっくり読むことが、先の希望が見えないいま、私たちの生き方を考えることにつながるのだと思います。

(構成=村上 敬 撮影=市来朋久、宇佐見利明)