収束活動の継続を強いる権限は本当にあったのか
収束活動の放棄は、「東日本壊滅」を引き起こす。であるならば、その継続は、たとえ人命が犠牲になろうが、諦めるわけにはいかない――。菅は、その瞬間にも考えがぶれることはなかったと振り返る。
だが、日本は、民主国家であり、法治国家である。国の最高責任者たる総理大臣であっても、その権限は法によって制限されている。収束活動を継続するべきだということはできても、それを強いる権限は本当にあったのか。私たちは菅の見解を次のように質した。
——日本国憲法18条では、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定められています。ああいう事故が起きて、国家が、労働者である東電の人たちに「そこでとどまってくれ」といった場合、突き詰めれば、こういう問題と抵触する可能性もあるのではないですか。
「国の責任としてやらざるを得なかった」
質問を聞いている間、菅の表情がみるみる変わっていくのがわかった。予想外の質問に虚を突かれたのと同時に、「なぜそんなことを聞くのだ」という不快感もいくぶん混じった複雑な表情だった。質問を聞き終えた菅は、そのまま天を仰ぐような仕草を見せ、10秒余り沈黙した。その後、言葉を選び、以下のように答えた。
【菅】そういう個別の法律的なことまで、個別的にどの条項がどうだからというところまで当時考えたかというと、個別的な条項のことまでは考えていません。
やはり国というものが、自分の国に対して責任を持つにはですね、どこかがやらなくてはならない場面があると思っていました。また逆にいうと、それをやらないときに、どうなるかということを同時にずっと考えていました。つまり「最悪のシナリオ」ではないですけれども、どんどんどんどん広範囲に避難して、そのことが場合によれば、また大勢の人命にもかかわるような混乱を起こす可能性も当然あるわけで。ですから、それをやらないという選択は、別の大きな問題を起こすことが、目に見えていますから。
やっぱり、法律に基づいたかどうかということでいうと……、ある種、超法規的なことだったと思います。しかし、私はそれはやらざるを得なかったと、国の責任としてやらざるを得なかったと、いまでも思っていますが。