時代劇『水戸黄門』のモデルとなった水戸藩主・徳川光圀とはどんな人物だったのか。『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)を出した、歴史家の安藤優一郎さんは「仁政を行う名君のイメージが強いが、少年時代は典型的な不良少年だった。一冊の書が光圀を変えた」という――。
慈悲深いお殿様のはずが…水戸黄門・徳川光圀の意外な顔
水戸黄門の愛称で親しまれる第二代水戸藩主徳川光圀は江戸時代を代表する名君である。仁政を行なう慈悲深いお殿様のイメージが強いが、光圀の実像はそのイメージで収まり切れるものではなかった。
青年時代、光圀は放蕩三昧な生活を送っていた。水戸藩主となってからは、自分の名前を後世に残したい名誉欲が動機となり、『大日本史』という歴史書の編纂事業に着手する。
その裏には同じ御三家の尾張徳川家、紀州徳川家への強いライバル心も秘められていたが、この編纂事業は「水戸学」が生まれるきっかけにもなった。そして幕末に入ると、光圀が産みの親となった水戸学は幕府の存立を脅かす思想へと転化していくのであった。
不良少年だった過去…青年期の放蕩三昧な生活
寛永十年(一六三三)、光圀は兄の頼重を差し置いて、幕府から水戸徳川家の世継ぎに指名された。光圀六才の時である。第二代藩主の座を約束されたものの、十代前半の頃から、光圀の生活態度は荒んでいく。その振舞いは初代藩主の父徳川頼房をはじめ水戸家の期待を大きく裏切るもので、不良少年としか言いようがない生活ぶりだった。
補導役を勤めた藩士の小野言員によれば、派手な格好をしていて、話す内容にも品格がなかった。水戸家の世継ぎでありながら、天と地ほど身分の違う草履取りたちと気軽に話を交わし、その内容も女性の話ばかりであった。
光圀の侍医だった井上玄桐も、光圀が遊里通いに精を出していたと証言する。朝帰りとなったため鰹売りに姿を変えて屋敷内に戻ったり、遊里からの帰路、悪友にそそのかされて浅草で人を斬ったことまであったという。