その放蕩ぶりは、江戸の旗本の間でも評判となる。そんな不良少年が家督を継いでしまえば、いったい水戸家はどうなるのか、その行く末が案じられるというのが世間の評価だった。

光圀が放蕩三昧な生活に走った背景には、兄を差し置いて水戸藩の世継ぎに指名されたことへの苦悩があった。世継ぎの重圧から逃れたい気持ちが動機だった。

しかし、十八才の時に『伯夷はくい伝』に出会ったことが、光圀の人生を大きく変える。『伯夷伝』は、古代中国の殷王朝の時代に生きた伯夷と叔斉兄弟の清廉な生き様を取り上げた伝記だが、光圀は大いに感銘を受ける。それまでの放蕩生活を恥じ、学問に精を出す好学の青年へと生まれ変わる転機となった。

そして、『伯夷伝』をヒントに、兄頼重の子供を自分の跡継ぎに指名することで、兄を差し置いて世継ぎの座に据えられた苦しみから抜け出し、心の安らぎを得ようと決意するに至った。実際、その通りになる。

江戸
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領民のための政策で、財政難に拍車がかかる

光圀が父の死を受け、藩主の座に就いたのは寛文元年(一六六一)のことである。光圀は三十四才になっていた。

水戸家は徳川御三家として位置付けられていたが、尾張・紀州家に比べると石高は半分ほどの三十五万石に過ぎなかった。そのぶん、朝廷から与えられる官位は尾張・紀州家よりも低く、光圀の不満の種となっていた。

立藩当初から、水戸藩は財政難に苦しんでいた。石高の割には藩士の数が多かった上に、江戸在府が義務付けられたからである。

参勤交代制により、大名は大勢の家臣とともに一年おきに江戸藩邸での生活が義務付けられたため、江戸での出費が藩財政に大きくのし掛かった。とりわけ水戸家の場合は、水戸に帰れず江戸での生活が続いたため、その負担は他藩に比べるとはるかに大きかった。

光圀は財政難を克服するため、みずから質素倹約に努めることで支出の切り詰めをはかる。朝夕の食事は一汁三菜以下、衣服も粗末なものを着るなどして範を垂れたが、藩のみならず藩士たちの生活も苦しかった。財政難の水戸藩は自力では藩士の生活を支援できず、幕府から特別に拝借金を受けることで、藩士への生活支援に転用したほどだった。

しかし、支出を切り詰めるだけで財政難が克服できるわけもない。結局は収入の増加つまりは年貢の徴収を厳しくするしかなかった。となれば、農村が疲弊して農民が逃げ出し、田畑が荒廃するのは避けられない。