江戸城の天守は3度建て替えられた。3度目の天守は明暦の大火で消失している。それでは1度目と2度目の天守はどうしてなくなったのか。日本中世史・近世史・都市史が専門で江戸東京博物館学芸員の齋藤慎一さんが解説する――。
※本稿は、齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)の一部を再編集したものです。
天守が江戸城にあったのは「わずか51年」
天守も時代の変化を象徴的に語っていた。
江戸城天守への注目は実に高いのだが、わからないことが多い。しかしながら、徳川家の権威を考える上で避けて通れず、若干ながら触れてみたい。
江戸城に天守が建てられていたのは、慶長12年(1607)の竣工から、明暦3年(1657)正月の明暦の大火で焼亡するまでのあいだである。江戸時代が慶長8年(1603)から慶応3年(1867)まで265年にもわたるのに対し、天守が江戸城に聳えていたのはわずか51年である。天守のない江戸城の時代のほうがおよそ5倍も長く、その意味では天守の存在意義はいかほどであったか。
江戸城の天守は3回も建てられている
加えて、江戸城の天守は3度も建てられている。最初の天守は慶長12年、2度目の天守は元和9年(1623)頃、3度目の天守は寛永15年(1638)である。3度目の天守は明暦の大火で焼失するので、存続したのは20年である。慶長期および元和期の天守はいかなる理由で終末を迎えたかは明らかではないが、長く見積もって慶長期天守は16年間、元和期天守は15年間ほど存続したことになる。各地に現存する天守が江戸時代初頭以降に存続したことを考えると、江戸城の天守の寿命はきわめて短い。そして3度の建て替えのために、天守の具体的なイメージもつまびらかでない。
江戸城天守が描かれた屏風として「江戸図屏風」「江戸名所図屏風」「江戸天下祭図屏風」「江戸京都絵図屏風」の4つが知られている。加えて、「武州豊島郡江戸庄図」のような絵図にも描かれている。