「写生に近いと考えられる」天守の描画

それぞれの屏風などに描かれる千鳥破風ちどりはふから破風、壁面構造を比較すると、描かれた天守は一様でないことは明らかである。屏風を描いた画家たちは江戸の景観や風俗を描くことを主目的としていたのであり、天守そのものをどれだけ忠実に描こうとしたかは定かではない。屏風は工房で制作され、素材となる天守をどれだけ正確に書き取ったかも明らかではない。多くは寛永期の天守を描いたと予想されるが、天守のイメージは正確とはいえないようだ。

そのようななか、『武州州学十二景図巻ぶしゅうしゅうがくじゅうにけいずかん』に描かれた江戸城天守は注目したい絵画である(図版1)。画家が天守そのものを描こうとしていること、江戸周辺の代表的な景観を集めたものであることから、景観そのものを重視していること、以上から写生に近い描画だったと予想されるからである。しかし、写生は上野からの遠望であり、墨の線も淡い。屏風などの絵画よりは実際に近いイメージかもしれないが、具体像には届かない。

【図版1】『武州州学十二景図巻』東京都江戸東京博物館蔵
【図版1】『武州州学十二景図巻』東京都江戸東京博物館蔵(画像=『江戸 平安時代から家康の建設へ』)

1度目の天守と2度目の天守がなくなった理由

3度目の天守は明暦の大火で焼失した。では家康が建てた1度目と、秀忠が建てた2度目の天守はなぜなくなったのであろうか。1度目の天守は本丸面積が狭小だったため、本丸拡張にともない取り壊されたという説がある。「慶長江戸図」に描かれた位置から、おおよそ現在の天守台の位置へ移されたのもこのときであるという。

2度目の天守については、近年に福田千鶴が「たたむ」という語彙から意図的に壊したという重要な見解を示している(福田千鶴『城割の作法 一国一城への道程』吉川弘文館、2020)。3度目の家光の天守は、2度目の秀忠の天守を少なくとも取り壊して再建した。遠く江戸城天守を望む人々にとって、時代の変化、将軍の交代を示すわかりやすい表現となろう。1度目から2度目への建て替えも、同じ効果が期待されていたのだろう。

門の形式、石垣、建物の内装など、城は新しく生まれ変わることで時代の変化を語ろうとしていた。となれば天守にも、同じ期待が注がれていたと考えてよいだろう。