連立式天守は江戸城にはなかった

天守を考える素材はいくつかある。しかし、3度の天守の具体像はまだ解明できない。そして江戸城が歴史を刻んだ年代の大半は天守がなかったのである。この点は揺らがない。天守がなくとも江戸城は存続した。またその時々に個性を表現していた3度の天守は個々独自のものであった。これらの点は江戸城を考える上で重要な点であり、1つの天守のみをクローズアップさせることは、江戸城の存在意義を限定してしまうだろう。その意味ではまぼろしのままのほうがよいのかもしれない。

齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)
齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)

ところで、千田嘉博は「江戸始図」の読解から慶長期の江戸城天守について新しい説を提唱した(千田嘉博・森岡知範『江戸始図でわかった『江戸城』の真実』宝島社新書、2017)。「本丸内部で第一に注目すべきは天守群です。現在の江戸城の本丸は中に天守台だけがぽつんとありますが、「江戸始図」が描いた慶長期の江戸城では、連立式の天守群を構成していて、想像を絶した堅固な構えになっていたと確認できます」、「慶長期の江戸城の大天守が単立したのではなく、姫路城のように連立式天守であったと確実になったからです」と述べた。

「江戸始図」が記載している、大天守西側の本丸壁面に方形の黒塗り四角とは、小天守の存在を示唆するのではないか。この記載から千田は連立式天守を導き出した。ところが一連の「慶長江戸図」には「江戸始図」が記載するような、本丸西側塁壁に大天守と連結する小天守が存在するような描画はない。一連の絵図群のなかで、「江戸始図」だけに小天守を思わせる描写がある。どうやらこの記載は誤写のようである。残念ながら、姫路城のような連立式天守は江戸城には聳えてはいなかった。

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