※本稿は、齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)の一部を再編集したものです。
屏風に描かれた江戸の姿
江戸城の天守が焼失する以前、天守を含んだ江戸城と江戸の景観を描いた屏風がある。その一つが、「江戸天下祭図屏風」(図版1)である。六曲一双の屏風のなかで、祭礼の行列は右隻右端の麹町門(半蔵門)を通過し、紀伊徳川家邸北側を通過している。右隻の主題が中央の紀伊徳川邸だったのであろうか、その景観はひときわ立派に描かれている。
同時代とされる「江戸京都絵図屏風」(江戸東京博物館蔵)では、半蔵門より城内に入り、東に直進する道が記載される。この道は尾張邸と水戸邸の間を通る道で、西の丸の道灌堀の堀端でT字路となる。御三家(尾張・紀州・水戸)の屋敷は西の丸と向かい合って構えられており、屋敷と西の丸の間には大道通りと呼ばれる直線道路がある。堀端を北の丸に向けて進むと先の祭礼の道に合流する。
ひときわ美しく賑やかな町として成長していた
とりわけ著名な屏風は「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)である。御三家を含む徳川一門の邸宅は優美に描かれ、江戸の華やかさの一翼を担っている。江戸城の周辺に屋敷を割り当てる際、徳川一門は優先して割り当てられ、徳川の本拠地である江戸を飾る装置として位置づけられた。日本橋方面を江戸の正面と考える現代の感覚からすると、いわば裏手とイメージされる吹上の位置に徳川一門は屋敷を有していた。日本橋を起点とする南北道を重視するのではなく、東西方向に江戸を貫く鎌倉大道の下道を重視して、徳川一門の屋敷が構えられていた。
江戸城の天守が建っていた頃、江戸の町は屏風に描かれるほど、ひときわ美しくかつ賑やかな町として成長していた。それにとどまることなく、江戸はさらに新しい町へと遷り変わっていった。その変化は決して急なものではなく、前代の遺産を引き継ぐように、徐々になされていった。東西道を意識して、城内の吹上に営まれた徳川一門の華やかな屋敷は、明暦の大火(1657年)の後になって、ようやく外へと移転していった。