平氏打倒に向けて挙兵した源頼朝は富士川の戦いで勝利し、大軍を率いて鎌倉に到着した。歴史学者の細川重男さんは「反乱軍のボスだった頼朝が、鎌倉幕府トップの呼称となる『鎌倉殿』になったのは1180年12月だ。学説はさまざまあるが、鎌倉幕府自体は、この日を成立と考えていたようだ」という——。

※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

鶴岡八幡宮の外観
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「それなりの町」だった鎌倉に武士が押し寄せた

さて、頼朝たちがやって来た当時の鎌倉の地について、『吾妻鏡』は、漁師などしか住んでいない辺鄙な田舎。〔所はもとより辺鄙にして、海人・野叟(田舎者)のほかは、卜居の類これ少なし〕とド田舎だったように記している〔治承4年(1180)12月12日条〕。

しかし、これは言い過ぎである。

鎌倉は、源頼義が岳父(妻の父)平直方から譲られて以来の「河内源氏」の根拠地であり、寺院も複数建てられている、それなりの町であった。ちなみに、このような場所を現在、歴史学界では「都市的な場」(分かり易く言い換えれば、「都市っぽい場所」)という、考えてみると意味のよくわからない言い方で呼んでいる。

だが、頼朝の鎌倉入りが、鎌倉の町の様相を激変させたのは間違いない。

鎌倉入りの時点で、頼朝は相模・武蔵・安房・上総・下総の南坂東五カ国に伊豆を加えた六カ国を支配下に収めていたので、この地域の各地から、いきなり武士たちが鎌倉に押し寄せて来たのであり、人口は突然激増した。

鎌倉入りした3日後には幕府築造に着手

その後、頼朝とは別個に兵を挙げた甲斐源氏(頼朝の先祖義家の弟義光流)との同盟が成立すると、甲斐源氏が支配下に置いた甲斐・信濃・駿河・遠江の甲信・東海地域も頼朝の版図に加わり、さらに頼朝の支配が上野・下野・常陸の北坂東3カ国にも伸びると、これら地域からも、武士たちが鎌倉に来住するようになった。

頼朝の支配領域が拡大すると共に、鎌倉の人口増は続いたのである。

10月6日に鎌倉に入った頼朝は、9日に屋敷(つまり、建造物としての幕府)の築造を開始。12日には鶴岡八幡宮の小林郷北山(現在、鶴岡八幡宮がある地)への移転・新造を開始した。

武士たちも各々の屋敷を建築し始める。

その後、鎌倉では道路の修造、寺院の建立など町作りが着々と進められた。

元暦元年(1184)11月26日からは、頼朝の父義朝の菩提を弔う勝長寿院(大御堂・南御堂)の建立が開始された。

奥州合戦後の文治5年(1189)12月9日からは、鎌倉北東の谷戸(鎌倉に多い山と山との間の谷間)一つを全て寺域とする永福寺の建立が開始された。平泉にあった二階建て寺院を模したもので、永福寺は「二階堂」と通称され、やがて永福寺の周辺地域自体が二階堂と呼ばれるようになった。頼朝親戚の文士藤原行政の屋敷がこの地域にあったため、行政の子孫は二階堂氏と呼ばれるようになる。

このように鎌倉の町作り、「都市鎌倉」の建設は、頼朝の時代を通じて続けられて行くのである。