頼朝が「鎌倉の大親分」になった瞬間

鎌倉入りの2カ月後、治承4年12月12日、完成した新邸への頼朝の引っ越しの儀式「御移徙之儀」が挙行された。

ここが「大倉御所」とか「大倉幕府」と呼ばれる建造物としての最初の幕府である(その後、鎌倉時代に幕府は二度引っ越している)。

出仕した者は、311人。

この儀式について、『吾妻鏡』は次のように記している。

しかりしより以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉主となす。

現代語訳すれば、

「この時より以降、東国の武士たちは皆、頼朝の道理あることを知って、担ぎ上げて『鎌倉主』とした」

となる。さらにわかり易く意訳すれば、

「この時から、東国の武士たちは、頼朝の器量を知り、皆で担いで『鎌倉主』とした」というような感じである。

「鎌倉主」、そして後に鎌倉幕府首長の呼称となる「鎌倉殿」は、直訳すれば「鎌倉に住んでいる偉い人」・「鎌倉にお住まいの身分の高い御方」という意味になるが、この頃の頼朝の立場や武士たちの感覚をも考慮して意訳すれば、「鎌倉の大親分」・「鎌倉に住んでるオレたちの大親分」というのが適切であろう。

当時の頼朝の公的な立場は、無位無官の「ただの流人」・「反政府武装勢力(反乱軍)のボス」であり、公権力(朝廷)から見れば犯罪者以外の何モノでもなく、まったくもって武士たちが勝手に担いだだけの存在だったのである。

実際、頼朝側も治承4年(1180)の挙兵以来、1181年の治承から養和へ、82年の養和から寿永への安徳天皇の下での改元を拒否し、寿永2年まで治承年号を使い続けていた。年号を拒否するということは、それを定めた天皇(皇帝)の支配を認めないという意思表示であり、頼朝は自分が反乱軍のボスであることを自ら認めていたと言える。

鎌倉幕府が成立したのは「1180年12月12日」

また、『吾妻鏡』が右の一文を記していることは、鎌倉幕府自身がこの頼朝の大倉邸入りをもって、鎌倉幕府の正式なスタートであったと考えていたことを示している。

と言うのは、『吾妻鏡』は、いつ誰が作ったのかを明記する史料の存在しない書物であるが、内容から鎌倉時代後期に鎌倉幕府自身が編纂した鎌倉幕府の公的史書であることは明白だからである。

現在、鎌倉幕府成立には1180年・1183年・1185年などの諸学説がある。これは、それぞれの説を推す歴史研究者が「鎌倉幕府をいかなる権力体と考えるか」によって、成立の基準が異なるからである。これら学説は学説として、上の一文からすれば、鎌倉幕府ご本人は、

「治承4年(1180)12月12日、オレたちは『オギャー!』と産声を上げたのだ」

と思っていたこと、鎌倉幕府の成立をこの日と考えていたことを示している。

そして、「鎌倉主」・「鎌倉殿」という呼称は、朝廷官職である征夷大将軍とは異なる、武士たちとの関係から生まれた頼朝(及びその後継者たち)の呼称なのであった(むしろ、鎌倉殿が天皇から与えられる官職が征夷大将軍であると言った方が正確である)。