鎌倉幕府を築いた源頼朝と妻・北条政子はどのような夫婦だったのか。歴史学者の細川重男さんは「頼朝は浮気癖がひどく、政子のヤキモチ焼きに親類や家臣はいつも振り回されていた。このことがよくわかる有名なエピソードがある」という——。

※本稿は、細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

有名だけど詳しく語られていない「亀前事件」

寿永元年(1182)6月1日。頼朝は中原光家の屋敷に愛人である亀前を住まわせることにした。光家は小野田盛長や藤原邦通と同じく流人時代からの家臣であり、主人の浮気の片棒も担ぐのである。

この亀前を巡って勃発したのが、いわゆる「亀前事件」である。

北条雅子を描いたイラスト
画像=菊池容斎/public domain/Wikimedia Commons

この事件は、頼朝や政子をはじめとする北条一家の人々の性格がよくわかるし、それよりナニよりオモシロいので、チョッと詳しく紹介してみる。

と言うか、亀前事件は鎌倉幕府の概説書や頼朝の伝記でも取り上げられることが多く、割と有名なのだが、どの本も大筋を記すだけである。概説書や頼朝伝のこれまでの作者は、どうしてこんなオモシロい話を詳しく書かなかったか、不思議である。で、『吾妻鏡』寿永元年6月1日条は、この亀前について、武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)をもって、小中太光家が小窪の宅に招請したもう。御中通の際、外聞の憚り有るによって、居を遠境に構えらるるとうんぬん。かつがつ、此の所、御浜出に便宜の地たりとうんぬん。この妾は、良橋太郎入道が息女なり。豆州の御旅居より、眤近したてまつる。顏貌の濃やかなるのみにあらず、心操、殊に柔和なり。去んぬる春の比より、御密通。日を追いて御寵、甚しとうんぬん。

[意訳]御所(頼朝)は大変可愛がっている亀前という愛人を中原小中太(光家)の小窪(小坪の誤。現・神奈川県逗子市小坪)の家にお招きになった。密通に行く時、噂になるのがイヤで、亀前の住居を鎌倉から遠くになさったということである。同時に、ここは御所が由比ヶ浜にお出での際、通うのに便利な場所であったということだ。

この愛人は良橋太郎入道という者の娘で、御所が伊豆にお住まいの時から、親しんでいたということである。亀前は見た目がかわいいだけでなく、とても優しい娘であった。今年の春(正月~3月)頃から浮気が始まり、御所のお可愛がりようは、日に日に度を越えて行ったということである。

じゃじゃ馬の政子とは真逆のタイプの愛人

小坪は鎌倉の近所であるが、間に険しい尾根がある。なにしろ、この尾根の付近の地名は名越で、これは「難越」が語源であると言われているほどである。そのため、陸路で行くのは厳しいが、由比ヶ浜から舟で行けば、すぐである。頼朝はうまい所に目を付けたものである。

亀前は可愛いうえに優しい娘だったとのことだが、政子は顔はよくわからないものの、言うまでも無くじゃじゃ馬である。頼朝は嫁とは真逆のタイプを愛人にしたわけで、古今東西、よくあるパターンである。

また、頼朝の亀前との浮気は、寿永元年の春(正月~3月)から再開したとのことだが、8月12日に長男頼家が生まれるから、頼朝の浮気は政子の妊娠中である。これもまた、よくある話である。ベタ過ぎである。

それにしても、原文は『吾妻鏡』特有のムダに格調高い和様漢文(日本風の漢文。つまり文法の間違った漢文)であるが、内容は週刊誌やインターネットの下世話なゴシップネタそのものである。