頼朝のせいで政子の逆鱗に触れた被害者たち

この事件で頼朝・政子御夫妻にヒドイ目にあわされた人々のその後に触れておこう。

伏見広綱 上の記事を最後に広綱は『吾妻鏡』から姿を消す。彼の鎌倉暮らし7カ月は、ただ、ただ、ヒドイ目にあっただけであった。

亀前 亀前の最終記事は、12月10日の小坪への引っ越しである。その後の動静は不明。殺されていれば『吾妻鏡』に記載があるはずなので、頼朝との関係が終わるまで、針の筵、薄氷を踏むがごとき思いの日々が続いたに違いない。

中原光家 光家は、12月10日に亀前がまた小坪の家に引っ越して来た後、しばらく『吾妻鏡』に登場しない。再登場は2年9カ月後の文治元年(1185)9月5日条なので、謹慎処分を喰らい、伊豆に帰ってでもいたのではないか。再登場後は、普通に幕府で働いている。政子にガミガミ怒られたであろうが、政子にとっても伊豆以来の付き合いで気心が知れていたから、この程度で済んだのではなかろうか。

牧宗親 牧宗親も11月12日に頼朝の八つ当たりで髷をチョン切られてから、しばらく『吾妻鏡』に出て来ない。再登場は2年半後の文治元年5月15日。壇ノ浦で死に損なった「伊勢平氏」の棟梁平宗盛・清宗父子を源義経が連行して来た際、鎌倉府内への西の入り口の一つである酒匂駅まで、(おそらく年上の)義理の息子北条時政が宗盛父子を受け取りに行ったのに同行している。やはり、しばらく謹慎処分を喰らっていたのではないか。新参者だった伏見広綱以外は、皆、政子が怒ると怖いのは百も承知であったろう。4人共、頼朝の意向に従ってやったことを、政子に激怒され、エライ目にあったかわいそうな人たちである。

頼朝が時政と義時の動向を気にしたワケ

ところで、亀前騒動で不思議なのは、「頼朝はナゼ、時政の鎌倉撤収で慌てたか?」であり、そして「ナゼ、義時が鎌倉にいたことで安心したか?」である。

当時の北条氏は頼朝を支える親衛隊のごとき存在であったとする意見もある。また、時政が頼朝にとって政治的に必要な存在であったとの見解もある。しかし、私には、そうは思えない。

まず、北条氏の元々の兵力は二十数騎程度以下と推定され、挙兵以前ならともかく、この時期の頼朝にとっては吹けば飛ぶような存在である。

また最近の研究で、時政が伊豆時代から朝廷に独自のルートを持っていたことが明らかにされている。しかし、武士はそれぞれ朝廷へのルートを持っているのであり、時政に限ったものではない。時政のルートが他の御家人に比べて強力なものであったかどうかは、今のところわからない。

時政が交渉能力に秀でていたことは事実で、石橋山敗戦後に安房から甲斐に赴き頼朝と甲斐源氏との同盟を成立させたり、文治元年(1185)11月25日から翌2年3月27日まで京都に滞在して朝廷との交渉をおこない、いわゆる守護・地頭の設置を認めさせたりしている。