時政は大勢の御家人の一人に過ぎなかった
しかし、これらは、あくまでも頼朝の存在あっての成果である。時政の才能は頼朝をバックにして初めて発揮される虎の威を借る狐の類に過ぎなかった。
事実、文治元年に上洛した時政について、摂関家の藤原(九条)兼実は日記に「頼朝代官北条丸」(『玉葉』文治元年11月28日条)と記しているのである。「頼朝の代官である北条ナントカ」とでもいう意味であり、兼実が時政の名前すら知らなかった証拠以外の何物でもない。
時政、そして北条氏は客観的に見ると、鎌倉入り後の頼朝にとっては、軍事力の面でも政治的にも、また経済力でも、いくらでも取り替えの利く、その他大勢の御家人の一人に過ぎなかったというのが、現在の私の結論である。政子とて、頼朝にとっては離婚しても、別に政治的な痛手は無かったはずである。
では、なぜ、頼朝は政子に頭が上がらず、時政のストライキに慌て、義時が鎌倉にいたことに安堵したのか。
頼朝にとっての北条ファミリーの価値
結局、現実の利害とは無関係に、政子をはじめとする北条ファミリーの人々は頼朝にとって大切なものであったのではないか。
スッタモンダがあったとは言え、ただの流人だった自分を迎え入れてくれた北条一家は、頼朝にとって掛け替えのない家族であったのだろう。
無粋なことを言えば、義経など源氏一門(門葉)は血縁があるがゆえ、頼朝にとっては自分に取って替わる可能性を持つ危険な存在である。これに対し、そんな可能性のまったく無い北条氏は、頼朝にとって安心できる存在であったとも言えよう。
「じゃァ、浮気すんなよ!」とも思うが、そこはそれ、また別の問題である。しょーもない浮気者というのは超歴史的な存在である。
頼朝は兄義平の後家(未亡人)、つまり義姉である新田義重の娘にラブレター(御艶書)を送り、政子の怒りを恐れた義重が慌てて娘を再婚させてしまったのを怒るという、どうかと思う行為をしているし(寿永元年7月14日条)、厳しい政子の監視の目を掻い潜って、浮気相手〔藤原(伊達)時長の娘大進局。文治2年(1186)2月26日条〕に貞暁(初名、能寛。文治2年2月26日条・『尊卑分脈』)という男子を生ませてもいるのである。