浮気を知った政子は屋敷を叩き壊させた
話が逸れたが、その後、頼朝は亀前を伏見広綱という者の屋敷に移した。
広綱は5月12日に遠江国掛河から鎌倉にやって来て、頼朝に初参(貴人に初めてお会いすること)し、右筆(字を書く係)として仕えたばかりであった。
亀前が移り住んだ広綱の屋敷は、由比ヶ浜に面した鎌倉の東の外れ、飯島にあった。直線距離なら、小坪のすぐ西隣であるが、鎌倉府内である。小坪より遥かに通い易いが、政子にバレる危険も遥かに高い。しかし、頼朝は欲望を抑えられなかったようである。
そして案の定、バレた。
勘付いたのは、頼朝の舅北条時政の後妻、牧方である。
牧方は早速、義理の娘政子(と言っても、おそらく牧方の方が年下)に、ご注進に及んだのであった。
激怒した政子は、11月10日、義理の祖父にあたる牧宗親(牧方の父)に命じて、伏見の屋敷を叩き壊させた。家一軒、ブチ壊させたのである。
ずいぶんと過激な行動に出たものであるが、「後妻打ち」といって、この時代の女性には夫の他の妻妾に対して暴力的行動に出る人は多数おり、政子もその一人であったのである。まァさすがに、ここまでやった事例は他にチョット聞かないが。
「こういう時はまず、こっそりオレに知らせろ」
恐い目にあった亀前は伏見広綱に連れられ、三浦氏の一族である大多和義久の鐙摺にある家に避難した。鐙摺は前に亀前がいた小坪のすぐ近く、三浦半島の根元(現・神奈川県三浦郡葉山町。現在の葉山マリーナ付近)である。
2日後の12日、頼朝は牧宗親を連れて鐙摺の大多和の屋敷を訪れると、衆人環視の中で宗親を怒鳴りつけた。
「御台を重んじたのは結構なことだ。だけど、御台の命令に従うといっても、こういう時は、まず、こっそりオレに知らせろよ。すぐに亀前に恥をかかせるとは、まったくもって、どういうつもりだ?」〔御台所(奥様。政子のこと)を重んじ奉る事においては、尤も神妙なり。ただし彼の御命に順うといえども、かくのごとき事は内々なんぞ告げ申さざるや。たちまちにもって恥辱を与えるの条、所存の企て甚だもって奇怪〕
完全無欠の八つ当たりである。「内々なんぞ告げ申さざるや」というセリフも情け無い。
まあ、頼朝にしてみれば、浮気をした自分が悪いのだし、それより何より政子が恐かったのであろう。
宗親は弁解の言葉も恐怖でロレツが廻らず、地面に顔をこすり付けて土下座していたが、頼朝はそんな哀れな宗親の髻(髷)を手ずから切り落としてしまった。
これは極めつけの辱めである。当時、出家していない俗人の成人男子は、人前では常に烏帽子を被っている。烏帽子を脱がすという行為が、そもそも現代であれば衆人環視の中でズボンを脱がす行為に相当する。さらに髻を切るというのは、これは、もうパンツを脱がして、いい大人の尻を叩くに等しい。宗親は泣きながら逃げて行った。