幕末の志士として知られる坂本龍馬には、日本初の商社「亀山社中」の経営者という顔もあった。歴史研究家の河合敦さんは「龍馬は薩長の力を借りて、下関の関門海峡に『海の関所』を作ろうとしていた。幕府に経済的打撃を与えつつ、自分たちも巨万の富を得られるという奇抜なアイデアで、暗殺されなければ実現していたかもしれない」という——。
※本稿は、河合敦著『関所で読みとく日本史』(KAWADE夢新書)の一部を再編集したものです。
日本に巨大な利権を生み出した「海の関所」
箱根や白河など、よく耳にする関所は「陸の上」にあるのでそういうものだと思われがちだが、敵の侵入を防いだり、怪しい者を臨検したり、金銭を徴収したりするものを「関所」と呼ぶならば、海から陸へ上がる港湾にも多くの関所が存在した。
すでに古代から重要な港湾(津)には、兵士が派遣され、常に不審な船を臨検し、怪しい者については取り調べをしていたことがわかっている。
さらに中世になると、港湾の支配者は、入港してくる船から港(津)の使用料を徴収した。その金銭の呼び方はさまざまだが、一般的には「津料」と呼んでいる。
ただ、朝廷や幕府がそれを公認しておらず、勝手に現地の有力者が徴収するケースが多かった。中世で最も栄えた海の関所は、摂津国兵庫津におかれた兵庫関だが、そこで徴収された津料は、東大寺や興福寺など有力寺院の懐を潤したことがわかっている。
大島延次郎氏によれば、「地方の豪族も加わり後には京都の等持寺、相国寺、北野社なども、兵庫関の利権を得ようと介入した」『関所その歴史と実態』(新人物往来社)という。まさに利権に群がるアリである。
これは兵庫関に限った話ではない。栄えている港のほとんどを寺社が管理するようになり、津料を徴収した。
のちには戦国大名も港の利権に目を付け、領地を拡大していく過程でその経済力を吸収して財力を伸ばした。織田信長の祖父信定や父信秀は港町・門前町として栄えていた津島(愛知県西部)を支配下におき、織田家を豊かにしたといわれる。