※本稿は、門井慶喜『東京の謎 この街をつくった先駆者たち』(文春新書)の一部を再編集したものです。
結果的に血が流れなかったイギリスの名誉革命
「無血」という語は、むやみやたらと様子がいい。国語辞典を引けばまず、
──戦争の手段によらずに革命、クーデター等をおこなうこと。
というような語釈になる。この世でもっとも野蛮で暴力的ないとなみを、もっとも知的で文明的な方法で解決するという人類至高の達成。
その具体例として誰もが挙げるのはイギリスの名誉革命だろう。勃発したのは1688年だから、日本ではいわゆる元禄時代、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉がはじめて生類憐みの令を出したころ。
英語のGlorious Revolutionの語感もあり、さぞかし紳士的な話し合いが持たれたのだろうと想像してしまうが、実際はどうか。この革命はひとことで言うと宗教騒動だった。
国王のカトリック推しがあんまり激しすぎるので、プロテスタント派の貴族たちが、海の向こうのオランダ総督に、
──兵をさしむけてくれ。
と頼んだところ、おどろくことに総督みずから上陸してきたので、貴族たちは相次いで馳せ参じた。
国王は側近にまで寝返られ、孤立無援となり、ロンドンを去ってフランスに逃亡したというしだい。なるほど血が流れなかったから「名誉」革命というわけだが、しかしこれなら単なる結果論にすぎないと見ることも可能である。
江戸城の無血開城は本当に「無血」だったのか
少なくとも総督のイギリス上陸の時点では、双方、戦争する気まんまんだったはずなのだ。だいたい国王とオランダ総督はこのとき対立関係にありながら、同時に義理の親子の関係でもあったので(国王ジェームズ二世の娘メアリが総督オラニエ公ウィレムの妻)、その意味ではこれは革命でも何でもなく、家庭内の権力譲渡にすぎないともいえる。
いずれにしても、こんなふうに歴史上「無血」と呼ばれる事件というのは、つぶさに見てみれば、たいていは未遂に終わった流血にすぎないようだ。スウェーデンのグスタフ三世による王権奪回も、リビアのカダフィによる政権掌握もである。どちらも軍人と行動をともにしている。
(もっとも、イギリス史のために言っておくと、この名誉革命を機にこの国の政体が絶対王制から立憲君主制へ変化したことは事実である。これは世界史の画期だった。王権よりも法律や議会といったものの力が大きく国を動かすようになった点では、たしかに「話し合い」の世の中への大きな一歩ではあった。)
ならば日本の場合はどうか。和製「無血」の代表は何と言っても江戸城の無血開城だろう。高校の教科書などにも「無血」とはっきり記してあるのではないかと思うが、これははたして知的かつ文明的な話し合いの結果だったかどうか。