無血開城から1年続いた旧幕府側の抗戦

言いかえるなら、無血開城後に血が流れた。

5月15日 上野戦争(天野八郎ら彰義隊が寛永寺で抗戦)
7月29日 北越戦争(河井継之助ら長岡藩兵が長岡城で抗戦)
9月22日 会津戦争(松平容保ら会津藩兵が若松城で抗戦)
(翌年)5月18日 箱館戦争(榎本武揚ら旧幕兵が五稜郭で抗戦)

日付はいちおう、新政府側の勝利が確定した日で統一した。つまり旧幕側は全敗したわけだ。このうち上野戦争は、厳密には徳川家達の駿府転封決定より前に起きているけれども、とにかくこうして年表をながめていると、こんにちの私たちは、

──どうせやるなら、なんで開城前にやらなかったのか。

正直なところ、そう首をひねらざるを得ない。そのほうが兵力の分散も避けられたし、臣下の一分も立ったろう。さんざん将軍の禄を食んでおいて、いざその危急のときに指をくわえて敵の城入りを眺めておりましたでは、後世はもちろん、同時代に対しても、かっこ悪いことおびただしいのである。

(なおこの場合、もちろん長岡藩兵と会津藩兵は話がべつである。彼らは将軍直属ではなく、それぞれの藩主に属しているため、江戸防衛および江戸城防衛の義務はもともとないからである。)

旗本が江戸城の明け渡しに抵抗しなかったワケ

やっぱり旗本どもは、300年の泰平ですっかり腰ぬけになってしまったのだ。尚武の心を忘れたのだ……という批判はかならずしも誤りではないけれども、私には、それも何となく後知恵という感じがする。

想像力が足りない。もうちょっと彼らの身になって考えるなら、もしかすると、彼らはそもそも江戸開城という事件自体をそう大したものとは思わなかったのかもしれない。

おどろくに値しない、とまでは言えないにしろ、

──あっても、おかしくない。

そんなふうに見ていた。

これを考えるとき参考になるのは、当時の用語である。当時の人々はもちろんイギリス名誉革命を知らなかったし、「無血開城」という語も知らなかった。「無血開城」は後代の歴史家が名づけた一種の概念語である。私がこれまで開城と呼んできた事件は、一般的には、お城の「明け渡し」と呼ばれたはずだ。

実際、西郷隆盛と勝海舟も、例の2日間にわたる交渉の席ではこのことばを使っている。そうしてこの「明け渡し」の語は、幕末にとつぜんあらわれたのではない。どころか徳川期を通じて一種の流行語でありつづけた。その実例は全国に、つねに存在していたからである。