江戸時代、日本各地には「関所」があった。関所には、江戸にいる大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐという機能があったが、実はそうした「出女」だけでなく、江戸に向かう「入り女」も厳しく調べられていた。歴史作家の河合敦さんは「そこには幕府の意外な思惑があった」という――。

※本稿は、河合敦『関所で読みとく日本史』(KAWADE夢新書)の一部を再編集したものです。

江戸の町
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男性に「関所手形」は必須ではなかった

江戸時代、関所に入った旅人たちは、どのように通過していったのだろうか。女性は特殊なので、まずは男性の場合について述べていこう。

関所内はけっこう混雑していて、入ってからもしばらく待たされることが多かった。いよいよ、呼び出しを受けると、取り調べの場である面番所の前へ向かう。

関所の役人たちが縁側奥の部屋にずらりと並んでいるのがはっきり見えてくると、笠や被りものを脱ぎ、手前で下座する。

さて、関所を通過するときには「関所手形」を見せる必要があると思っている方も少なくないと思うが、実は、男性には関所手形(証文、切手とも)は必須ではなかった。

とはいえ、江戸時代の人々が旅行や出張する場合、「往来手形」のほうは原則必要だった。

必ず持っている必要があった「往来手形」

そう、関所手形と往来手形は違うものなのである。

往来手形のほうは、いまで言う免許証や保険証、パスポートなど、いわゆる身分証明書にあたるものといえる。往来手形には、名前と住所と年齢、檀那寺、旅行の目的、「横死した場合、どこに連絡し、どんな葬り方をするか」といったことが記載されていた。

往来手形の発行元は、農民や町人の場合、村の名主(庄屋)や町の家主、檀那寺、あるいは奉公先や勤め先の主だった。藩士は、藩庁から発行してもらった。

往来手形は身分証であるとともに、旅の途中に万一のことが起こったとき、保護を受けるためのものであったのだ。

いずれにせよ、関所手形と往来手形は別物なのである。