幕府が暗に関所近くの旅籠屋に特権を付与

この関所手形について、研究者の渡辺和敏氏は次のような指摘している。

男性は「制度的には関所手形は不要であった。しかし通過する際に関所役人から厳しく取り調べられることもあるので、居住地の名主や旦那寺、時には関所近くの旅籠屋などで関所手形を書いてもらったり、自分で書いたりすることもあった」(『東海道交通施設と幕藩制社会』愛知大学綜合郷土研究所)。

なんと、関所手形を関所近くの旅籠屋に作成してもらったり、時には自分で勝手に書いたりしたというのだ。

とくに、関所近くの旅籠屋や茶屋が関所手形を発行していたことに関して、渡辺氏は、

「関所では男性の通行に関所手形が不要であるが、関所近在の旅籠屋などが故意に誤った情報を流して旅行者から金銭を集めていたのかも知れないし、実際に購入した関所手形を見せることにより関所の取調べが簡単に済んだ可能性がある」(前掲書)と記している。

これもすごい話である。とらえかたによっては、関所の役人が近隣住民と結託しておこなった詐欺まがいの商法ではないか。

これについて渡辺氏は、「関所側がすでに慣例化しつつあった近在の人々による旅人への関所破りの斡旋を止めさせるため、暗に関所手形の販売という特権を付与していた可能性も否定しきれない」(前掲書)と推測している。

女性には「女手形」が必要だった

いっぽう女性が関所を通過する場合は、そう簡単ではなかった。江戸方面から関所を通って西へ向かう女性のことを「出女」と呼ぶが、江戸幕府は出女を非常に厳しく臨検した。謀反をたくらむ大名の妻子などが密かに逃亡してくる可能性があるからだ。

そのため女性の場合は、往来手形のほか、関所手形が必要だった。この女性の関所手形を「女手形」と呼ぶ。

女手形は、江戸時代の元和期(1615~24年)にはすでに存在していたことがわかっている。

日本最古の「女手形」に書かれていたこと

渡辺和敏氏によれば、元和元(1615)年9月のものが最古だとする。以下、それを紹介しよう。

女六人、厩橋より三州迄参候、是ハ西尾丹波御理候間、無相違可通候、以上。

彦九兵衛 印(『東海道交通施設と幕藩制社会』)

この女手形は、六人の女性が上野国厩橋から三河国へ向かう際、幕府の代官である彦坂九兵衛光正が、新居関所に対して発行した女手形である。渡辺氏は、上野国群馬郡に知行地を持っていた西尾丹波守忠永が、自らの出生地である三河国西尾に女たちを赴かせるため、幕府に依頼したのではないかと推察している。